あたりまえのこと

 「じゃあね」と手を振ったら、目覚まし時計で起こされた。

 初夏の陽気。富士山の残雪を仰ぎながらブックオフ長泉店へ。森博嗣有限と微小のパン講談社文庫2001年初版、吉野源三郎君たちはどう生きるか岩波文庫2011年65刷、計210円。前者は『すべてがFになる』に始る十作シリーズの十作目。十作全部を読む気はないが、六冊も持っている。うーん。後者は、月刊『現代』1991年1、2月号に発表された「近代日本の100冊を選ぶ」という討論企画で選出された。それではいつか読もう、と。

 倉橋由美子『あたりまえのこと』朝日文庫2005年初版を読んだ。小説を巡って辛辣な指摘がなされている。

《 批評とはある基準に照らして判断し、評価することである。これはよくてあれは駄目と分けることで、その意味のギリシア語の動詞krineinからkritikosもcritiqueも出てきた。 》 「24 批評」

《 文学の方ではことに少ない。それで多いのは、いかなる基準があるとも示さずに、褒めたようで褒めない、けなしたようでけなしていない、何やら評者の挨拶のような言い訳のような、我田引水風のおしゃべりも混じった感想が批評と称して行われ、これで世の中が丸くおさまっている。そして評論をいくらか圧縮したものに本の内容を加えてこれから買おうか買うまいかと迷う読者の便を図るものが書評と呼ばれる。ここでもわずかな例外を除いて駄目なものを駄目と指摘して酷評するような書評はまず見当たらない。 》 同

《 いくら売れていても駄目なものは駄目という批評家の声は聞こえてこない。 》 同

 これは1970年代末に発表された。二十一世紀の今、かような文筆家は、斎藤美奈子福田和也くらいか。「ある基準」が難しい。福田和也は基準を明文化している(『作家の値うち』飛鳥新社2000年)が。感想対批評。批評は、反論駁論批判非難を受ける覚悟でするもの、とも思う。

《 デッサンが上手かった小磯良平が上手いだけの画家で終わったように、デッサンの上手下手は作品の質に直接は影響しないはずだ。 》

 このネットの書き込みのように堂々と書いてみたいが。

《 全体が大嘘の塊であることを承知の上でその嘘が楽しめるならばそれは立派な小説である。むしろその方が、本当らしく見せかけて読者を釣る小説よりも高級であると言える。ただしそれは読者の精神を宙に支えて飛行させるに足る強力な文章を必要とする。 》 「11 嘘」

《 この嘘を嘘のままで押し通してしまう力はあくまで理性に合った力として働くという意味で合理的な性質のものでなければならない。 》 同

《 『旧約聖書』でも『源氏物語』でも、確乎として存在している文学的構造物には、ある複雑な構造が見出されるはずである。 》 「12 秩序」

《 小説を「意識」、「言葉」、「物」という三点で定義される平面の上で考えるのは適切ではないように思われる。 》 「14 小説という行為」

《 つまり小説には他人あるいは社会が必要不可欠であるということで、先程の意識──言葉──物という平面にはその肝心のものが欠けている。 》 同

《 確かに第一級の作品にはそれ相応の努力の投入が不可欠であるが、逆に努力の分量がそれだけで第一級の作品を作るわけではない。努力は十分条件ではないのである。 》 「23 努力」

 絵画へ援用できるな。渾身の力を込めた野心的大作だけれどもつまらない、とか。明日へ続く(つもり)。