あたりまえのこと・続き(あたりまえじゃない)

 雨。雨降りもいいものだ。気持ちが落ち着く。午後は曇り。泣き出しそうで落ち着かない。

 昨日の毎日新聞読書欄、コラム「MAGAZINE」は『建築と日常 別冊 多木浩二と建築』。

《 理論を先に置かず、過程のなかで思考を研ぎ澄ませる批評家 》

 と紹介される故・多木浩二。上記引用と昨日の「批評とはある基準に照らして判断し、」が交錯する。

 倉橋由美子『あたりまえのこと』朝日文庫2005年初版、前半が昨日の「小説論ノート」で、1970年代後半に書かれ、後半の「小説を楽しむための小説読本」は二十世紀末に書かれた。後半の「小説を楽しむための小説読本」から。

《 問題はこの『伊豆の踊り子』なら『伊豆の踊り子』が、世の中も人の好みも変わっていくこれからの百年、依然として読まれ続けるという「耐久性」をもっているかどうかです。もっていればこれは古典です。そうではないけれども文化的価値があるというので、重要文化財としてどこかに保存しておくことになれば、それはもはや古典ではなくて研究用の化石にすぎなくなります。 》 「小説の現在」

《 しかし日夜生産されている小説は古典とも化石とも関係はなさそうで、売れなければ産業廃棄物扱いになるだけ、という次元で勝負しています。 》 同

 周囲に斜塔を作っている本をふと処分したくなってしまう。よく見りゃそんな本ばかり……かな。けれども、と考え直す。刹那的に濫造された小説でも、水木しげるの貸本漫画のように、化石もしくは古典になるかもしれない。水木しげるはまだ早いかもしれんが、時代は早まっている。一応選んで買っているからなあ。

《 それよりも、思考が正確に働いて、文章がこれで「決まっている」かどうかが大事です。 》 「「決まっている」文章」

《 ともかく、こういう「文体修行」をやってみれば、小説を面白くするのは、「何を書くか」よりも「いかに書くか」であることがよくわかるというものです。 》 「文体の練習」

 川端康成「片腕」の冒頭を引用、そして。

《 それにこの後、話をどう展開させるかも文体次第です。右のような文体は、老人がこの腕を愛玩しながら妄想を繰り広げる、その妄想を書くのに最適でしょう。 》 「幻想を書く」

 仰天。え、語り手の「私」って老人なの!? 若い男性だと思っていた。それがあたりまえだと思っていた。ウッソ〜〜〜。新潮文庫がない。確かめようがない。ネットを管見するに「私」の年齢は問題にされていない。新潮文庫では『眠れる美女』の併録だからなあ。相手は「娘」だからオジサンまでは想像できるけど。

 ネットの拾いもの。

《 うん、俺、まだまだ若い! ←幼稚なだけだ! 》