『富澤赤黄男全句集』林檎屋1976年初版を読んだ。赤黄男は「かきお」と読む。臙脂の布装、濃い茶の革背の瀟洒な本で、見てよし、触れて気持ち良くなる。厚めの本文用紙がまた心地良く、活字の大きさ組み方もよく、愉しい。巻末には高柳重信の四十頁に及ぶ、心を打つ力作「富澤赤黄男ノート」。日記とエッセイ、年譜からなる別冊と小冊子。目を通せば、作品の全体像と作家の生きた激動(戦前の弾圧〜戦中の徴兵〜戦後の苦闘)の時代背景が明瞭に見えてくる。心の行き届いた本だ。
別冊収録の短文集「クロノスの舌」から。
《 詩は<完成>を希求ひながら、しかも、みづから<完成>を拒否しつづける──この根源的な矛盾が、われわれを詩に趨かしめる。 》
「富澤赤黄男ノート」冒頭一頁から。
《 おそらく富澤赤黄男という存在は、ちょうど新興俳句運動全体が一つの巨大な投石器となって、俳壇の中天高く打ち揚げてしまった象徴的な記念碑のようなもおで、やがて運動が崩壊し消滅したのちも、同じ位置に依然としてとどまり、更に、赤黄男の死後といえども、なお鮮やかに、そこに位置を占めつづけているのである。 》
「ノート」の結び近く。
《 戦後の西東三鬼と富澤赤黄男は、どちらかというと互いに反発しあうことのほうが多かったように思うが、このとき三鬼もまた胃癌のため死の病床にあった。その西東三鬼の死は四月一日に訪れた。赤黄男の死後、わずか二十数日を経たのみである。 》
1962年のこと。それから五十年、二人の歳を越えてしまったわい。
《 蝶墜ちて大音響の結氷期
花粉の日 鳥は乳房をもたざりき
切株に 人語は遠くなりにけり
草二本だけ生えてゐる 時間
偶然の 蝙蝠傘が 倒れてゐる 》
ネットのうなずき。
《 オリジナルな仕事をするというのは、プロの基礎技術に裏付けられたうえで、自分のなかの素人っぽいところをいかに生かしていくかということだと思うんだ。 》
ネットの見聞。
《 自転車に使われているネジはイギリス、フランス、イタリア、アメリカとすべてサイズ、ピッチから正逆まで異なる。ネジは時計回りに締めるものと思っているとひどい目に遭う。 》
ネットの拾いもの。
《 毎日『今日はつかれた〜帰って即行寝よう』と思う。でも仕事終わると元気になってくるんだよなあ。 》