述語的

 ボールペンはUNiのJETSTREAMの黒色0.7ミリを二本使っている。数年前、日本橋丸善でラバーボディ シルバーに出合って以来定番に。この外観と握り具合が好きなのだけど、こちらでは見当たらない。インクが終えたので近くのホームセンターで替え芯を二本買う。何度目だろう。

 松岡正剛『知の編集工学』朝日文庫2001年初版、「第五章 3 エディトリアリティの発見」。エディトリアリティとは編集的現実感という造語。そこで使われている「述語的」という用語に、安藤信哉の晩年の水彩画を連想。

《 次に、第二番目にあげた、〈エディトリアリティ〉がすこぶる述語的であって、かつ述語的につながっていくという点についてのべておく。 》 274頁

 続く記述に安藤信哉の絵画作法を感じた。量子力学に一時代を画した物理学デヴィッド・ボーム。

《 ボームはヨーロッパ型の科学的合理主義があまりに還元主義的(要素還元主義的)で、事態をアトミックに分割し、あげくに主語と対象を分断することにうんざりしていた。そこでボームは要素に分解せず、しかも主客の分断のおこらない文法を「レオモード(rheomode)と名づけ、適当な動詞の中にサブジェクトとオブジェクトを同時に保存する可能性があると考えた。それは述語的な可能性のつながりだけで思考が進んでいくひとつのモデルを提供しようというものだった。 》 274-275頁

 私論「安藤信哉・自在への架橋」の結び。

《 西洋アカデミズムの習得から出発した安藤信哉氏は、絵画世界に西欧的「自由」の構造から日本的「自在」の構造へ至る一本の強固な橋を構築したのでした。 》

《 晩成したその絵画では、対象は対象としてそこに確固として在りながら、そのかたちと色調は解釈に固定される手前の、瑞々しい感興のままに見事に引き出され、自在に再構成されています。 》

 安藤信哉が切り開き、到達した視界をかように言い表したけれど、「自由」と「自在」の違いを精確に説明できないか、など釈然としない気分を引きずっていた。それが「述語的」という用語に出合い、隘路を抜け出す光明が見えてきた。

《 私たちは主語を強調したことで思索の主体を獲得したように見えて、かえってそこでは編集能力を失い、むしろ述語的になっているときにすぐれて編集的なはたらきをしているはずなのである。 》 279頁

 安藤信哉の時代を軽やかに越えた先進性に改めて感服。モダニズムを超えたモダンなのだ。

 ネットの見聞。

《 「原子力の世界で起きたことは戦争にそっくり。私も原子力に夢を持ったことがあった。ほとんどの日本人は原子力に夢を抱かされた。政治経済の場にもたくさんいた。しかし一度原子力に足を踏み込んでしまうと、原子力の世界がいかにひどいものかがわかっても異を唱えることができなくなる」(小出裕章) 》

 ネットの拾いもの。

《  本名が姓名ともに数字だけという例がいろいろあるらしい。「一 一一」(ハジメ カズヒト)、「九十九 八十八」(ツクモ ヤソハチ)、「三五 七五三」(サゴ シメゾウ)、「百百 千万億」(モモ チマオ)、「八九十三 二一」(ヤクトミ フイチ)、「一二三 四五六」(ヒフミ ヨゴロク).. 》

《 吉岡修一郎さんが『数学千一夜』の中で「金沢市に"一二三四五六"という姓で、名が"七八九十郎"というのがありました」と書いている。 》

《  春立つや一二三四五六七   加藤郁乎  》

《 シャネルの碁盤 》