フラジャイル

 梅雨明けとか。暑い。34.5度。沼津市の古本屋巡りは中止(ひとりごと)。

 松岡正剛『フラジャイル』筑摩書房1995年初版を読了。軽快にして明解な文章、いやあ面白かった。話題は博覧強記、日本古代〜中国古代〜ヨーロッパ古代からヤクザ、アニメにまで多岐多彩、聖地巡礼、天地遍歴の様相。まさしくハイパーリンク。先に『知の編集工学』を読んでいたので、その実地版としてじつに興味深く読めた。

《 たしかに「強がり」というものは生物あるいは人間の本性というものなのかもしれない。しかしまた、「弱がり」というのもある。弱がりによって生きのびた生物もあるはずなのである。 》 32頁

 友だちの飼っているセキセイインコ、友だちは軟弱者〜と呼んで可愛がっている。 蚊やゴキブリなら叩くことができるけど、このインコは何をしても許してしまう。これぞ弱がりの法。

《 この「うすばかげらふのやうな危機感」がフラジリティの核心のひとつである。 》 58頁

《 フラジリティは感覚の振動である。 》 62頁

《 そこには主語がない。どんなものにも管理されず、どんな論理にもあてはまらない。フラジリティは論理からの逸脱そのものであり、文脈における述語性そのものなのである。「何である」でも「何であるか」でもなく、「何かであろうか」にむかっているものだ。 》 62頁

《 フラジリティはつねに断片性にささえられている。フラジリティという全体などはなく、フラジリティという完成はない。フラジリティは「やりかけ」で「あたかも」で、「ときどき」で「みかけ」であるような、すなわち主体性を捨てた非持続的な属性そのものなのである。だから、フラジリティは充足ではないし、充満を拒絶する。 》 62頁

《 遊行や渡世の歴史は、まさに脆く壊れやすいものの歴史である。すなわち「壊れもの注意!」の歴史である。 》 312頁

《 われわれは自分のことを、健康で民主的ですばらしく平均的な人間像に近いものとおもわされ、また、ついついそのつもりになっている。(略)しかし、どう考えても、われわれはもともと「損なわれた存在」であったのである。 》 324頁

《 よほどその「弱音」に耳を傾ける必要がある。いや、もはや大声によるプロパガンダを拒否し、あえて小さな声に耳を傾ける時期が来ているようにおもわれる。 》 328頁

《 われわれは「感じやすい問題」をとりもどす必要がある。それには「私」の壁を柔らかくして「私」の半径をせめて歩道橋よりも大きくする必要がある。そして、内なる誰かを外なる誰かと結びつけてみる必要がある。 》 330頁

《 きっとトトロとは菩薩の子か孫なのだろう。しかし、やはり「感じやすい問題」こそが、われわれの新たな出発点なのである。 》 331頁

 フラジャイル FRAGILE という言葉を目標にして、例えば富士山頂上へ一直線に登るのではなく、周辺から螺旋状にぐるぐる巡っていって頂上に至る。そこは、なんと頂点はなく、巨大なへこみ=窪地=空間だった。一面、崩れそうな脆い岩石ばかり。そう、突出した中心はない。そんな空想を勝手にしてみたくなった。

 明日へ続く。

 ネットの拾いもの。

《 民主党「二位じゃダメなんですか?」 共産党「志位じゃダメなんですか?」 》

《 スーパーのPOPに「梳(す)き身鱈(だら)」を平仮名で書いて、あまつさえハートマークをつけた店員さんに猛省を促したい。 》