花鳥風月の科学

 以前日本橋丸善で見た木製の立派な書見台が心に浮かび、プラスティックの書見台を買い替えようと、ネットで見ると五千円ほど。うーむ。木の書見台を作ろうと思い立つ。物置をのぞいたらタオルセットを入れた桐箱の蓋が目にとまる。不要の辞書二冊を重ねて、それに斜めに立て掛けると、以前と同じ角度、使いかってもいい。とりあえずこれでいいや。

 ブックオフ長泉店で涼みがてら二冊。辻真先『日本・マラソン列車殺人号』光文社文庫2011年初版、ミステリー文学館・編『悪魔黙示録「新青年」一九三八』光文社文庫2011年初版、計210円。前者は、三十二年続いた瓜生慎シリーズの最終巻なので購入。

 松岡正剛『花鳥風月の科学』中公文庫2004年初版を読了。先に読んだ『フラジャイル』同様、博覧強記の知識を縦横無尽に取捨選択、編集し、そこから新たな世界像、歴史像を出現させる。その見事な手腕に脱帽。牽強付会の気味もあるので、なにかしら新手の手品に引っかかったような気分にもなる。しかし、花鳥風月の「科学」なのだ。正統・異端でいえば、異端だろう。しかしながら、世の変化は常に辺縁、異端から発する。やはり、私好み、か。

《 たまたま今日の科学では、未知の分野によこたわる非合理よりも、既知の分野の合理でかたまった領域にすこしだけ未知を加えることが”慣例”になっていただけのこと、そんなことばかりしていては科学もおっつけゆきづまる。事実、多くの分野で科学上のパラダイムの変換が叫ばれているにもかかわらず、ここしばらくは大きな停滞がつづいているのです。

  突破口のひとつは「情報」という視点の導入にあるはずです。 》 392頁

《 「間」は日本独特の観念です。が、なかなか一口には説明しにくい。とくに海外の人に「間」を説明するのが一苦労です。 》 331頁

《 こうなると、いったい「間」という観念が何をあらわしているのか、はなはだ高等なものになってきます。 》 334頁

《 もともと「ま」という言葉には「真」という字があてられていた。 》 335頁

《 いずれにしても「真」という言葉が最も最高の概念あるいは中心の概念としてあった。
  しかもこの「真」というコンセプトは、ここが注目すべき点なのですが、なんと「二」を意味していたのです。おまけにその二は、ここもまた重要なところなのですが、一の次の序数としての二ではなく、一と一とが両側から寄ってきてつくりあげる合一としての「二」を象徴していたのです。
  では、その二である「真」を成り立たせているもともとの「一」をなんとよぶかというと、それは「片(かた)」とよばれていた。「片」とは片方や片一方のことです。そして、この一としての「片」が合わさって「真」にむかっていこうとしていたのです。ということは、「真」はその内側に二つの片方を含んでいたということになります。
  それなら、その片方と片方を取り出してみたらどうなるか。
  その取り出した片方と片方を暫定的に置いておいた状態、それこそが「間(ま)」なのです。別々の二つの片方のもののあいだに生まれるなんともいえない隔たり、それが一と一とを含んだ「間」というものです。

  以上が古代中世的観念のなかに生じていた「間」の発生のプロセスに関する私の仮説です。 》 335-336頁

 ネットの見聞。

《 それにしても「理念なき政治」「労働なき富」「良心なき快楽」「人格なき知識」「道徳なき商業」、そして「人間性なき科学」はしょせん徒花なのである。 》 松岡正剛