エコール・ド・パリ殺人事件・つづき

 深水黎一郎『エコール・ド・パリ殺人事件 〈レザルテイスト・モウディ〉』から美術関連の論説をいくつか。

《 確かにマイナーな画家にわざわざスポットライトを当てるなんて、損得勘定抜きにの学者ならばともかく、画商としてはなかなかできることではないのではないだろうか。少なくとも評価の定まった有名画家ばかりを扱っていたほうが、リスクは少ないことは間違いないだろうに──。 》 100頁

《 「決まっているじゃないですか。詐欺ですよ。ラッセンヒロ・ヤマガタも一流のアーチストだけど、あれだけ大量に刷られてしまっては、とても一枚数十万円という値はつかない。連中は将来への投資にもなるとか言って買わせているらしいけど、手離すときはせいぜい買値の十分の一が良いところでしょう。つまりあの連中は、正常な市場価格の十倍で商品を売りつけているわけです。これは詐欺じゃないんですか? 》 230頁

 ラッセンヒロ・ヤマガタを「一流のアーチスト」と言ってるところが面白い。

《 キスリングの場合問題は、裸婦や花、果物など、目に快いものしか描かなかったその場面から、完全に悲哀の哲学が抜け落ちていたことだろうか。 》259頁

《 ユトリロの重要性は、そんなどこにでもある平凡な都会の風景から、何とも言えない詩情と寂寞感を浮かび上がらせたところにある。 》260頁

《 本物の優れた芸術は、それ以降の全人類の認識パターンを、規定してしまうほどの力を有するものだということである。 》 261頁

《 従ってユトリロの絵を見る時には、制作年代が決定的に重要な要素になってくる。一見同じように見える作品でも、晩年の作品には残念ながら芸術的な魂が完全に欠如しているからだ。 》 262頁

 ユトリロの1910年代の作品には心を打たれたが、その後は駄目。展覧会であきれたことがある。

《 「上手いという言い方は、この場合正しくありません。上手いのではなく、すごいのです。 》 268頁

《 そう思わせる単純化がすごいのです。このデッサンも、ラフな線で描かれてはいますが、見れば一目でモディリアーニの素描だとわかる。そこがすごいのです。 》 268頁

 モディリアーニの素描は未見。世界中の美術館にあるモディリアーニの絵の総数は、本物の三倍あるとか。

《 ──写真ではここまでものの〈本質〉を感じことは決してない。そいういう意味ではこの絵は、正に絵画でなければ絶対に表現不可能なものを、表現していると言えるだろう。 》 288頁

《 「わずかな例外を除いて、一般に日本人画家の絵は日本でしか売れません。しかもそれは大抵の場合、絵そのものの価値ではなく、その画家がその後芸術院会員などになって、画壇で〈出世〉して行くのを見越して付けられる値段です。その証拠に欧米と違って日本では、画家が死ぬとその絵の値段は一気に下がるのが普通です。 》 290-291頁

《 事実、藤田が会心の作と呼んでいた『アッツ島玉砕』や『サイパン島同胞臣節全うす』は、ただ死のみが全てを支配する地獄であり、見るものに深い鎮魂の思いを抱かせる傑作である。 》 295頁

《 だが藤田の筆は、そんな軍部の思惑をはるかに超えてしまっている。その証拠に、戦時中に国民総力決戦美術展の会場で、多くの日本人をその前に拝跪させたこの同じ画面を、今日我々は、戦争の狂気と悲惨さを生々しく伝え記録することで、平和を祈願する場面として眺めることもできるのである。単なる戦争プロパガンダの絵画だったら、そんなことは絶対に不可能である。もしこの絵を戦争賛美だと言うならば、過去にピューリッツァー賞を獲った写真のほとんどが、戦争賛美ということになってしまうだろう。 》 297頁

《 このような絵を描いた画家の戦争責任を追及しようとしたのが、GHQではなく、GHQに追及されることを恐れた日本人の画家仲間たちだったことに、筆者は深い哀しみを禁じえない。 》 297頁

《 藤田を高く評価したフランスと、全ての責任を押し付けた戦後の日本──我々がそこから学ばなければならないことは、まだまだ残っているように思われる。 》 298頁

 藤田嗣治戦争画アッツ島玉砕』は、東京国立近代美術館の常設展で観た。名作だ。

《 そして彼等の死後、美術の中心は旧大陸を離れ、雑誌の広告をコラージュしたり(ハミルトン)、キャンベル・スープの缶などの大量生産・大量消費品を画面いっぱいに描いたり(ウォーホール)、新聞の低俗的な連載漫画の一齣を、印刷のドットも含めて拡大して描いたり(リキテンスタイン)、芸術は機械文明や商業主義に反抗するどころか、むしろそれらを積極的に取り入れ、またその中に自ら取り込まれることを望むようになる。 》 418頁

《 そしてその後を襲ったミニマル・アートやアースワークの作家たちは、自らの個性を、作品からなるべく排除することを望んでいるようにすら思える。もちろんそれはそれで一つの態度であるが、そんな彼等には芸術家というよりは、製作者という名称の方がぴったり来るように思われるのは、筆者だけだろうか。 》 418頁

 うなずける。