西瓜糖の日々/述語的絵画

 中秋の名月

 リチャード・ブローディガン『西瓜糖の日々』河出文庫2011年5刷を読んだ。ほとんどのものが西瓜糖で作られる、つつましく物静かな別世界の人たち。しかし、そこでも苦悩はあるし、自殺もある。じつに壊れやすい、フラジャイルな小さな共同体。その土地の名はアイデス= iDEATH(虚数・死)。iは英語では−1の平方根のこと。まさしく虚の世界。しかし、虚は現実の反対のリアル、虚実になる。虚実のリアリティ、迫真性。それが芸術。

 昨日話題の白砂勝敏氏から今春、新作絵画を見てほしいと依頼された。A4判の紙に描かれたそれらは、彼のそれまでの絵とはまるっきり違っていた。強いていえば、アメーバが増殖していくような絵。これは新機軸だと直観。最初の萌芽の一枚を購入。後日それらについて何か書いてほしいと頼まれ、短文を書いた。

《   「生成する絵画」

    絵はどこから生まれてくるのか。
    そんな問を、白砂勝敏氏の不定形絵画群は呼び覚ます。
    天啓、降りてきたひらめきを捕捉した絵画がある。
    対して白砂勝敏氏の絵は、無意識の際(きわ)から来訪した
    微動する何かが氏の筆先に伝わり、その微動に鋭敏に感応した
    筆先が、刻一刻と生動する航跡を紙面上に転写したものである、
    と私は推測する。
    芽生えた動きは生育し、成長し、そして止まる。
    それぞれの無二のかたちは、どこか時間の生命態を想起させる。
    白砂勝敏氏は、自身の直感に従い、その顫動(せんどう)する
    描線に独特の彩色を添える。                      》

   それらの絵画を私は「述語的絵画」と名づけた。印象派に始る絵画表現の冒険を、私は「主語的絵画」と呼ぶ。そして二十一世紀になって萌芽を見せた新たな絵画・版画に対して、私は「述語的絵画」と呼ぶ。主語的絵画と述語的絵画の間にあるのが、「自動筆記」と考える。まだ考えついて日が浅いので公表を控えていたが、この機会に公開。

 奥野淑子さんの木口木版画に出合って、その制作方法の新鮮さに深い感心を持ち続けてきた。新鮮と感じる内実がよくわからないまま、今夏になって、白砂勝敏氏から短文を依頼され、それが「述語的絵画」という新造語に結実した。近代・現代を牽引してきた絵画が主語からなる表現であるのに対し、奥野、白砂両氏の作品は、述語からなる。

 「述語的絵画」は、八月十一日の白砂氏へのメールで初めて使った。

《 ピカソに代表される主語的絵画から、白砂さんの述語的絵画へ。 》

 述語的絵画は、まだ生まれたばかりの用語。環境に押しつぶされてこのまま消え去るかも知れないし、環境にしっかりと耐え、自立するかも知れない。生み出した私自身が、未だにうまく定義づけられない。

 ネットの拾いもの。

《 完成したごろ関係者が→シニアモーターカー 》

《 てぬき蕎麦はよくないな 》