関川夏央『現代短歌 そのこころみ』集英社文庫2008年初版を読んだ。
《 だがここで、短歌という形式ははたして「古い」か、俵万智の感受性は「新しかったか」、そう斎藤美奈子は疑問を投じる。逆ではないのか。「新しい革袋(短歌という形式)に古い酒(古い感受性)」で物語を歌ったからこそ、「彼女の歌は万人に受け入れられた」というのである。もっともな意見だ。 》 195頁
以前ぱらっと開いてこの一節に瞠目した。深く同意。納得できる評言にやっと出合った。そして「あとがき」を読んだ。
《 この本は、現代短歌の果敢な「こころみ」を歴史として記述しようとする「こころみ」である。 》
おいそれとは読めないな、と思った。昨夜の名月を観て、読む時の到来を知った。
《 一九五四年は、短歌史の分岐点であった。前年、斎藤茂吉と釈超空、二巨星が堕ち、かわって中城ふみ子と石川不二子ふたりの女性歌人が登場した。中城ふみ子は、歌壇外を見据えつつ短歌ジャンルそのものの拡大と変格とをもくろんだ中井英夫によって意外な影響力を持った。その歌にこめられた高度な物語性と演劇性は、無意識のうちの写生短歌に対する強い拒絶であった。そしてそれは、もうひとりのより激越な変革者、寺山修司を五四年秋に呼び出す契機となった。 》 43頁
「高度な物語性と演劇性」を、味戸ケイコさんの絵に認める。一昨日買った『イーハトーボの劇列車』の味戸さんの表紙絵「幻想列車」はその一例。
《 私は寺山修司がそんなに好きではなかった。「天井桟敷」の芝居は見たことはなかったが、その、意図して雑駁な「土着性」を誇ったつくりを好まなかった。一本だけ見た映画はそのとおりの印象だった。しかし短歌はよいと思った。すごいと感心した。 》 52頁
同じだ。私は一本の映画も見ていない。渋谷にあった天井桟敷館の前は素通り。芝居は唐十郎率いる「状況劇場」ばかり見た。
《 六四年から七十年までの短歌界の空気は、冨士田元彦の回想によれば、「タリバン政権下のアフガニスタン」のごとくであった。 》 76頁
そんな短歌界に興味なく縁もなく、1968年に出た『全集・現代文学の発見・第十五巻 青春の屈折・下』学藝書林で寺山修司の短歌に出合い、1969年の『全集・現代文学の発見・第十三巻 言語空間の探険』で塚本邦雄、岡井隆の短歌そして加藤郁乎の俳句を知ったのはじつに幸運だった。
《 一九七○年代、「前衛短歌」という言葉は消えたが、それは「前衛短歌」がすたれたのではなく、すでに塚本邦雄、岡井隆、葛原妙子らの揺るぎない軸を中心に短歌界が回転していたからであった。 》 85-86頁
《 この「律」第三号に塚本邦雄の企画・演出・レイアウトによる紙上の実験劇場「ハムレット」が掲載された。 》 69頁
《 そこではハムレットに佐佐木幸綱、ガートルードに馬場あき子、オフェーリアに川野深雪、ホレーショに小野茂樹などが「扮して」歌った。 》 69頁
復刻された塚本邦雄『ハムレット』深夜叢書社1972年初版を開く。帯文。
《 塚本邦雄頌 三島由紀夫
I. 塚本氏は短歌を時間芸術から空間芸術へ移し変へた。氏の短歌は立方体である。
II. 塚本氏は短歌に新しい祭式を与へた。この異教の祭司によつて、短歌は新しい神を得た。
III. 塚本氏は天才である。 》
明日へつづく。
ネットの見聞。
《 「優れた散文に、若し感動があるとすれば、それは、認識や自覚のもたらす感動だと思います」小林秀雄 》