『アンパンマンの遺書』

 一昨日の毎日新聞「今週の本棚」、「この3冊」は内田樹・選の村上春樹。3冊は「羊をめぐる冒険」「中国行きのスロウ・ボート」そして「村上朝日堂」。

《 私の「村上春樹短篇ベスト3」は「「中国行きのスロウ・ボート」と「午後の最後の芝生」と「四月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」である。一つだけ選ぶなら『四月』と言う女の子に私はこれまで何人か会った。恋の本質を作家はこれほど短い物語に凝縮することもできる。 》

 陽射しの強い朝、本棚から『カンガルー日和平凡社1983年初版を抜き、「4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」を読んだ。単行本では「4月」となっている。それはさておき。出会いとすれ違い。さらっと描かれていて、そうかあ。添えられた佐々木マキのイラスト、ビルの看板の文字。

《 [ LOVE ME OR LEAVE ME ] 》

 ここでジャズ歌手アニタ・オディの同名曲でもかければサマになる?(わけないじゃん)。

 昨日、高知県香美市やなせたかし記念館へ、やなせたかしの『夜霧の騎士』サンリオ1979年初版など、記念館の未収蔵本を郵送で寄贈。まだあるやなせたかし本、これからじっくり発掘。

 やなせたかしアンパンマンの遺書』岩波書店1995年初版を再読。

《 その後も何度かサイン会をした。一番ひどかったのは、その頃、サンリオが取引のあった三愛の婦人下着売場に詩集を置いてサイン会をしたことだ。おそらく下着売場の中でサイン会をやったのは、ぼくひとりにちがいない。世の中は奇妙で不思議だ。この下着売場の詩集サイン会は大好評でよく売れ、ついに三愛大阪支店まで出張した。 》 134頁

 1947(昭和27)年のこと。
《 この年、制作・構成酒井七馬、作画手塚治虫の『新宝島』が大阪の育英出版から出版され、四十万部とも八十万部ともいわれる空前の大ヒットとなった。 》 106頁

《 しかし、既成の漫画家の手塚治虫に対する評価は低かった。ほとんど誰も認めていなかった。 》 106頁

《 既成漫画家は認めなかったが、子供達は認めた。手塚治虫は子供達の神様だった。 》 106頁

 アンパンマンのこと。
《 講演の仕事で地方へ行くと、幼稚園の先生がにこにこ笑いながら「うちの園ではあんぱんまんが大評判です」と言う。図書館では、『あんぱんまん』いつでも貸し出し中で、新刊を入れても直ぐボロボロになると聞いた。
  絵本の評論では一度もとりあげられたことはない。まったく無視されていた。
  最初に認めたのは、三歳から五歳までの幼児だった。 》 179-180頁

《 ぼくはかすかな戦慄が走るのを感じた。これはえらいことになった。 》 180頁

《 今は人生のオツリか附録のようなものだ。しかし附録が本誌より豪華ということもある。ぼくの附録は意外に良かった。 》 「はじめに」

《 なんとか遺書を書きあげてほっとした。

    一九九四年一一月ニ一日          》 「はじめに」

 ニ○一三年二月の誕生日もステージで元気な姿を見せてくれた。そういえばこちらも、今は人生のオツリか附録のようなものだ。

 ネットの見聞。

《  20年たてば読者も入れ替わります。手に入らなくなった本は読まれなくなり、忘れられていきます。それは自然なことではあるのですが、では、読まれなくなった本は、いまでは読むに値しない本なのか。もちろん、そんなことはありません。 》 藤原編集室

《 「人は新作のみにて生くるものにあらず」と昔の偉い人も仰っています。 》 藤原編集室