『一刀斎の古本市』つづき

 富士山に白雪の冠。昼前、隣町の函南町の骨董市へ知人の車に同乗して行く。立派な旧家の壁一面、床一面に並べられた書画骨董その数五千点以上。足の置き場所に苦労する。布地以外をくまなく見て回る。粋に額装された池田蕉園の白描美人画に惹かれる。割安だが今の懐具合では……。まあ、買う気ならガラス板をはずして確認するけど。

 昨日話題の森毅『一刀斎の古本市』ちくま文庫は、我が意を得たり、という文章に出合う。たとえば。

《 そして、雑多なもの、それも、お喋りのついでのようなものとか、短いコラムのさりげないのとか、そうしたものをぼくは好む。
  堂々とした著作ではなく、町のあちこちに書きちらされ、風に飛んでいく、そうした文章の数々である。 》126頁

《 なかには、こうしたものをゴミ扱いして、彫心鏤骨の作品に較べて軽んじたがる人がいる。とくに、教師っぽい性格の人に、そうした手合いが多い。たぶん、なにやらガンバルのが好きな人、なにやらガッチリしたのが好きな人なのだろう。 》127頁

 アンドリュー・ワイエスの絵だって、本画の油彩画よりも下絵のような水彩画のほうが、筆触が遙かに生き生きとしていて魅力がある。やなせたかしでも、カットの絵がいちばん素晴らしい。一昨日の電話では味戸ケイコさんもそうらしい。洲之内徹のコレクションでも、いちばん惹かれる絵は、安井曾太郎のデッサン「少女」1940年だ。

《 そういえば、学問のリーダーだってそうで、学問の流れの先頭に立つから、学派をリードできる。二十年も三十年もしてから問題になりそうなことを、早見えして論じたところで、学者としてはマイナーな存在でしかない。でもぼくは、マイナー好みで、メジャーなリーダーより、むしろ彼らが好ましい。 》 137-138頁

 二十一世紀には有名になる、と水木しげるの貸本漫画を買っていたのは一九七○年前後。NHKのテレビ小説で一般にブレークしたのは四十年後。K美術館で高く評価した美術家たちは、今はマイナーであっても、三十年先にはどうなっているか。楽しみではあっても、生きてはいないなあ。三十年経つと、やなせたかしの亡くなった歳になる。四十年で時代が変わると森毅は書いているが、そうなりゃ、百歳を越えている。無茶な。

 ぐっと切実に迫ったのは、以下の一文。

《 そのことは「いかに老いるべきか」といった問題ではない。いかに人生を歴史にすべきか、という問題である。 》 123頁

 ネットの見聞。

《 TSUTAYA BOOKS STORE有楽町マルイにて「人喰いの時代」の1店舗限定セールをやっていただいています。お近くの方はぜひお寄りください。 》  山田正紀

 ハルキ文庫の新装版だ。手元には元本の徳間書店の単行本1988年と徳間文庫1994年とハルキ文庫1999年があるけど、一店舗で売り出すとは、面白い試み=冒険だ。読んではいる。内容はすっかり忘れている。

《 それからレオン・スピリアールト(Leon Spilliaert 1881-1946)の孤独で 内向的な自画像、雪の上の黒い犬、水墨画のようなモノトーンの雪の風景・・・。》 福山知佐子

 以前ブリジストン美術館で見て、一目惚れした画家。川瀬巴水や味戸ケイコさんに通じる、黄昏の風景。

《 「作品はいいか悪いか」。現代美術のコンテキストに囚われないということになるならば、「いい悪い」の基準をどこに求めるのかが問題になる。ものすごく大雑把に言って「強度」ということになるのだろうか。しかしラッセン問題でも浮上したように、「強度」と「審美」の関係はどうなるのか。また、「誰」が「いい」と言ったかという問題も関わってくるのではないだろうか。 》 大野左記子

 ネットの拾いもの。

《 ダウンベストが救命胴衣にならず、ファーベストがマタギにならない女は一握りかと…。 》