『ヌード写真』つづき

 昨晩、飲み会の前にブログを駆け足で上げる。帰宅して確認すると、数箇所打ち間違い。急いてはことを仕損じるわ。ただでさえそそっかしいのに。そそっかしいといえば、こんな詩。

《  「虫」  天野忠

   病気が癒ってしまい
   すっきりした腹の上に
   新しい晒しをくるくると巻いて
   せったをはいて
   看護婦さんに仁義を切って
   あばよッ
   と出て行ったが
   裏門から入って来た霊柩車に
   轢かれて死んだ
   萬(よろず)幸多郎……


   押さえると
   直ぐ死ぬ虫のように
   彼は生きた             》

 やなせたかし記念館から本が届いたとのメール。やれやれ。冷たい雨。家こもり。普段着、早々と冬仕様に。夕方雨上がる。食料買出し。肉が半額。いただき〜。

 「北斎は我らが同時代人」とフランス人が言ったと仄聞しているが、出典を確認していない。通説としてあるようだ。また、葛飾北斎、油彩画の藤田嗣治そして銅版画の長谷川潔が、フランスにおける日本の三大画家と評価されているとも聞いた。これがフランスの美術界で常識であることを前提にして考える。なぜ、三人が高評価なのか。まあ、フランスの美術界に受け入れられ、何らかの貢献をしたからだろう。

 藤田、長谷川はおき、北斎だ。なぜ広重ではなかったのか。それがお題の「北斎は我らが同時代人」だ。広重は同時代人とは認められなかったということだ。出典を忘れてしまったが、広重は前近代人で北斎は近代人という指摘もあった。で、いつも思うことは、ゴッホは広重の浮世絵を模写したが、北斎の浮世絵を模写しただろうか、ということ。管見するところ、ないようだが。

 私は、北斎の風景画よりも広重の風景画に親近感を抱く。

 多木浩二『ヌード写真』岩波新書1992年のつづき。荒木経惟(のぶよし)のヌード写真について。

《 荒木の視線は男性の支配と結びついた社会が終わりつつあることを示している。(引用者:略)ひとつの歴史の終わりを告げている彼の私小説的世界はあたらしい神話は生み出していない。それはまた別の視線の役割であろう。 》 165頁

《 むしろヌードがもっぱら女性を撮ってきたために、いまやヌードという女性のイメージにおいて、その歴史の逆転が生じようとしている。 》 176頁

《 断言はできないが、われわれは最初のダゲレオタイプの時代から現在にいたるまでとは異なる歴史のなかに生きはじめている。 》 177頁

《 つくられた紛いもの、イメージがまずある──そしてそこに、作る人間も、モデルも、見る人間も生み出されてくる。イメージとして自分を経験する社会である。われわれはフェイクである以外に存在しうるのか。そしてこのフェイクとして自分を経験することが、もはや人々を安心させることはなくなったのではないか。 》 191-192頁

《 人間はこうした社会的イメージの記憶に接触することで、いかにも「主体」らしく出現する。そうでないと他者になる。いいかえるとこれまで人間は、主体という言葉に意味をこめてきたが、それはもっとも平均的なイメージが「主体」らしきものと措定されていたにすぎないのではないか。このフェイクの社会にあって、主体とはそのこと以上を意味するとは思えない。 》 192頁

《 こうしてフェイクとしての自分しか経験できない社会では、歴史あるいは時間についても理解しなおさなければならなくなるだろう。 》 193頁

 こうした考察のその先はどうなるか。シンディ・シャーマン Cindy sherman の写真を手掛かりに論及してきた著者は、その先にロバート・メイプルソープ Robert Mapplethorpe の写真を見る。

《 彼のヌードのなかでわれわれはまったく普通の身体の一部として性器を眼にすることになるだろう。 》 198-199頁

 そして結ぶ。

《 ひとつの神話的身体の誕生である。 》 199頁

 ネットのうなずき。

《 楽しい思い付きによって、その時そこに適した環境が作れた(気になっている)としても、5年、5年か・・・5年かそれぐらいか・・・が耐用年数なのだ。》

《 ささやかなことが面白い、というのはすごいことだと思う。 》

 ネットの見聞。

《 複雑な政治的ファクターをわかりやすいシングルイシューにとりまとめて、それを仕上げて「すべては解決した」と言い切って、ほんとうの問題から国民の目をそらせるように仕向ける技術において、小泉さんは天才です。たいしたものです。今だってすべてのメディアが手のひらで転がされている。 》 内田樹

《 今の問題は「最終処理場があるのか、ないのか」だけに縮減されました。「ない」なら原発を止める、はい、おしまい。それまでの原子力行政のすべての失態と犯罪的行為についてはさらりとスルー。「処理場がある」なら原発再稼働を阻害する理由は何もない、という話になります。 》 内田樹

《 安倍自民党のアイディアは、小泉反原発レバレッジにして原発問題を「ゴミ捨て場の有無」に縮減し、「捨てる場はある、だから原発再稼働に問題はない」という結論に世論を誘導することだと僕には思えます。どこにあるのかって?安倍さんが「完全にブロック」したがっているあそこですよ。 》 内田樹