『文学で社会を読む』

 埼玉県からの視察、バスが渋滞で遅れ、午前中の予定が昼をまたいで源兵衛川を案内。「こんなに近くにカセミがいるなんて!」と驚かれ「こういうところに住みたい」と声に出される。

 午後三時前お茶にしようかな。とサイレン。どこかなと前を通る消防車を見に窓を開ければ焦げ臭い薄ら煙。あれま、屋上へ上がると西に白煙がもうもうと上がっている。いやあむせったい。自転車でひと走り。火事場見物で出払っている知人女性の家の西三十メートルほどだ。何台もの消防車が道路を塞いでいる。そりゃそうだ。野次馬のなかの顔見知りにご挨拶。自転車をこいでいるところを知人女性がバスから見てメールを寄越す。どこで誰に見られているか、わかったもんじゃない。

 スクラップブックから。1988年4月25日の記事。

《 チェルノブイリから2年 「1万人行動」に市民2万人 東京で「反原発」集会 》

 1988年4月26日の記事。

《 プルサーマル計画 美浜原発でスタート 》

 1988年4月27日の記事。

《 高まる建設反対運動 下北の核燃料施設 戸惑う政府、動燃 》

 1988年4月30日の記事。

《 事実上、諮問機関で”決定”の原子力政策 国民の”賛否”問う場を 》

 1988年5月28日の毎日新聞社説。

《 米の原発廃棄が問うこと 》

 1988年6月7日の記事。

《 九電玄海原発 原子炉を緊急停止 放射能含む冷却水漏出 格納容器に 》

《 原子力局長あすから欧州へ 反対運動に対処 》

 佐高信『文学で社会を読む』岩波現代文庫2001年初版、「はじめに」から。

《 職業は普通、他人のためモノを造ったり売ったりする「他人本位」のものである。そして否応なく金銭を見つめさせられる。 》

《 道楽的職業でない仕事は、他人のためにモノを造ったり売ったりするのだから、どうしても「自己を曲げる」ことが出てくる。そして「会社」という組織の中で虫の好かない奴とも仕事をやらなければならない現代の多くの職業人(会社員!)は、二重に自己を曲げざるをえない。/ しかし、こうした屈折を、これまでの、いわゆる純文学作家たちは完全に見落としていた。 》

《 いわゆる純文学は”他人本位の屈折”を経たことのない作家たちのギルド的文壇文学だったのである。 》

《 多くの作品が「社会」から離れ、「現実」を映すことがなくなってしまったのである。 》

 国会を連想させるなあ。

《 私は、純文学か大衆文学かという区分ではなく、その小説が社会や時代を深く、呼吸しているかという視点から、五十の作品を選んだ。 》

 読んだ小説は松本清張ゼロの焦点』、円地文子『食卓のない家』、吉村昭『仮釈放』だけ。持っている本は丸谷才一『笹まくら』、大仏次郎『帰郷』、東峰夫『オキナワの少年』、水上勉『海の牙』、宮部みゆき火車』、佐木隆三復讐するは我にあり』そして『船戸与一『砂のクロニクル』。

 ススメられて気になる本はまだあるなあ。「むすび」から。

《 理想主義者の存在しない現実主義者の跳梁こそ、お寒い光景だと思うのである。それは吸血鬼のみの動きまわる世界ではないか。 》

 ↓ご同病の人がいた。

《 私のトラウマ.シネマは「マタンゴ」だ。あんなイヤなものはない。「トラウマタンゴ」というダジャレを思いついたが、これを「トラウマ タンゴ」と分解すればなかなか面白そうな物語ではないか。 》 山田正紀

 スクラップブックから。

《  ものの影みな爪立(つまだ)ちて秋の暮れ  檜紀代  》

《  屋上の檻に孔雀はぼろぼろの羽ひろげたり さむきかな日本  永田和弘  》