「『かわいい』論」

 姫野カオルコ『昭和の犬』幻冬舎直木賞朝日新聞の記事から。

《 ――「すっぴんは事件か?」というエッセイを書いておられます。今日は晴れの日なので少しはお化粧も?
  どこまでを言うんでしょう。ファンデは塗っていません。マスカラも塗ってません。 》
 http://book.asahi.com/booknews/update/2014011700005.html?iref=comtop_rnavi

 ブックオフ長泉店で三冊。田南透(たみな・とおる)『翼をください東京創元社2012年初版、工藤直子工藤直子詩集』ハルキ文庫2007年5刷、中村文則『掏摸(スリ)』河出文庫2013年11刷、計315円。

 毎月郵送されてくる、知人が出している無料タウン誌「南大分マイタウン」今月号。

《  ゆるキャラの楽屋で会えばめじろんの中から出るは市の女子職員  御沓幸正  》

 はて、めじろんとは? ネット検索。
 http://www.pref.oita.jp/site/mejiron/
 女子職員どんな子かな? そっちが気になる。ゆるキャラなるものに全く興味がない。ゆるキャラとは「ゆるいマスコットキャラクター」を略したものとか。ゆるキャラ誕生十周年か。
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%86%E3%82%8B%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%A9

 四方田犬彦『「かわいい」論』ちくま新書2006年初版を再読。以前読んだ時は付箋は後半だけだったけれど、今回は前半から付箋。この読み取りの違いに驚く。

《 美は人をして畏敬と距離化へと導くが、グロテスクは同情を喚起する。「かわいい」とはものに宿る本質などではなく、「かわいい」と名付け、指さす行為なのではないかという解釈が、ここから生じる。 》 87頁

《 わたしは本章の冒頭で、「かわいい」が「美しい」の隣人であると記したが、この言葉は厳密に訂正をしなければならないだろう。すなわちグロテスクであること、畸形であることこそが「かわいい」の隣人なのだ。両者を隔てているものは実に薄い一枚の膜でしかない。 》88-89頁

《 わたしの知るかぎり、このプリクラに唯一注目した「大人」は、今は亡き種村季弘だった。 》 106頁

《 あらゆる事物はミニアチュールと化すことで、現世の時間秩序から滑り落ち、独自の無時間性を獲得することになる。 》 108頁

 再読では後半よりも前半に卓見を感じた。未熟としての「かわいい」と日本人の美意識に顕著な不完全性の尊重。このあたりの微妙な違いはじっくりと考えたい。

《 この文化ナショナリズムの傾向は、第二次大戦で日本が敗北した後、それ以上に顕著となった。だがこうした伝統主義とは近代化以降に、どこまでも他者の眼差しを契機として、歴史的に形成されたものにほかならない。歌舞伎、浮世絵、陶磁器、着物といった具合に、江戸期の庶民にとって「伝統」とはとうてい自覚されていなかった大衆文化が、内面化されたオリエンタリズムを媒介として、純粋にして高級な文化遺産へと、イデオロギー的に作り変えられていったにすぎない。 》 179-180 頁

 慧眼だ。「かわいい」を考える時に再び読むことになるだろう。

 ネットの見聞。

《 なににつけ、健康であるということが一番鈍感だ。 》 原研哉

《 原始、人は無職だった。 》