「特集・現代美術入門講座」

 一昨日の知人女性からのメール。

《 市役所の女性が来場し、とにかく現代アートを勉強すると話していました。 》

 勉強……。すごく奇異な感じがした。なぜだろうと考えていた。現代アートって、そんなに面白い? そんなに刺激的? そんなにスゴイ? 時代を突き抜けるようなモノ? なんてボロクソなイメージしか浮かばない私。「現代アート」という言葉に胡散臭さを感じてしまう。本棚から月刊『太陽』1993年11月号を取り出す。「特集・現代美術入門講座」。最初は「横尾忠則 現代美術を歩く」。佐倉市川村記念美術館を訪れて作品をあれこれ見て感想を述べる。前置きが読ませる。

《 どういうことかというと、つまり「現代美術はもう面白くない」という実感なんだ。 》

《 では率直に言おう。現代美術があまりにも観念的になってしまったからだ。 》

《 またいつの間にアーチストは思想家になってしまったのだろう。思想は思想家にまかせればいいじゃないか。アーチストが思想を持つのは悪いというのではない。作品を思想化させることにどれほどの意味があるというのだろう。 》

 横尾忠則の油彩画には魅力を感じないが、これらの発言には深くうなずく。一昨日、北一明氏のデスマスクについて《 作品をどうとらえるか、じつは今も考えている。 》と記したのは、ここに起因する。館内を巡って横尾の締めくくりの感想。

《 ぼくが親しみと刺激と勇気を与えられた作品はこれみよがしの観念的な現代美術ではなかったことに、何かしら希望のようなものを感じたが、その大部分が残念ながらニ○世紀初頭のものばかりであるというのも皮肉だ。そんなぼくの心情と裏腹に、現代美術はますます、政治的、戦略的なエゴの産物を生み続けながら、天界の意思を無視して、宇宙意識から遠ざかっていくのがわかる。 》

 発言の後半はよくわからないが、前半部には共感。写真の横には以下の発言。

《 今、現代美術に必要なのは感動だよ。コンセプトばっかじゃなくて、子どもの持つ”ものをつくる純粋な喜び”がないと人生が豊かなものにならないよ。 》

 21日に私は以下を記した。

《 自分がいいと感じるものをいいと言うために買ってきた。味戸ケイコ、小原古邨、北一明、白砂勝敏、深沢幸雄……。 》

 横尾の下記の発言にうなずく。

《 思想の片鱗もない谷崎潤一郎の文学がなぜあれほどまでに読者の心をつかむのだろう。それは主題や様式の目新しさではない。谷崎の波動を受けた読者が、表現を越えた次元で彼の波動に共振するからだ。 》

 森村泰昌の「新・戦後美術史概説」も読ませる。「具体」の生みの親、吉原治良

《 最後に、すべてのいきさつを離れて何がいい作品かを言うべきである。例えば田中敦子の「電気服」や「ベル」の作品は、吉原のどんな作品より良質だったと私は思うが、どうだろうか。 》

《 今までの図式は通用しない。美術史の書き換えが始まりかけている。 》

 しかし、始まったのだろうか? と考えてしまう。まあ、何よりも驚いたのが温泉街の射的場の写真だった。沼田元氣の口上から。

《 サア、では貴方だけにコッソリ教えましょう。今、最も現代美術しているミュージアムを。温泉射的美術館へどうぞ。 》

《 今かつてのファンシーグッズの吹きだまりは、現代美術として蘇る。 》

《 今迄は、現代美術が思い込みと勘違いの世界へベクトルが向かっていたのが、今度は逆にそちら側から物の見方や楽しみ方を教わるという寸法だ。何て素敵なんでしょ。 》

 いやあ、二十年経っても勉強になります。ってことは何も変わっていないってこと?

 陽気に誘われて自転車でブックオフ三島徳倉店へ。泡坂妻夫『亜愛一郎の転倒』角川書店1982年初版、同『恋路吟行』集英社1993年初版、柳広司『トーキョー・プリズン』角川書店2006年初版帯付、計315円。泡坂妻夫の二冊は贈呈用。

 ネットの見聞。

《 静岡県立美術館「美少女の美術史」9月20日(土)〜11月16日(日) 》
 http://www.spmoa.shizuoka.shizuoka.jp/japanese/exhibition/kikaku/2014/index.php

 これは楽しみ。ふふふ。

 ネットの拾いもの。

《 世の中にたえて花粉のなかりせば春の心はのどけからまし 》