「夜の果ての旅」

 セリーヌ『夜の果ての旅』中央公論社1964年初版を読了。1932年(昭和7年)出版。セリーヌ38歳。凄い小説だ。 第一次世界大戦に従軍した主人公の医学生が、戦場から二十年ほどの流転の人生を語った小説。灼熱のアフリカ・ コンゴの植民地、狂乱のアメリカ東部の自動車工場、侘びしいパリの下町、郊外……。それぞれの場所で出会う、 切羽詰った下層庶民たちの生々しい生態。地面すれすれの視点から人間の美醜を描破する。付箋からいくつか。

《 完全な敗北とは、要するに、忘れ去ること、とりわけ自分たちをくたばらせたものを忘れ去ることだ。そして 人間どもがどこまで意地悪か最後まで気づかずにくたばっていくことだ。 》 24-25頁

《 考えてみれば、どうして美の中と同様、醜さの中にも芸術が存在してはいけないのか? そっちのほうはまだ 未開拓の分野、ただそれだけのことだ。 》 77頁

《 冷酷な真相につつまれたこの世の果てへ、青春は跡形もなく消え去ってしまったのだ。ところで、自分のうちに 十分な熱狂がなければ、いったい、外へ飛び出したところで、どこへ行くあてがあるのか。死だ。どっちかに決めねば ならぬ。命を絶つか、ごまかすか。僕には自殺する力はなかった。 》 195頁

《 彼女を愛していることには、まちがいなかった、だが、それ以上に僕は自分の悪弊を、あのいたるところから 逃げ出したい欲望を愛していたのだ。自分でもわからぬなにかを求めて、おそらくは愚かな自尊心から、一種の 優越性の確信から。 》 223頁

《 僕らが一生通じてさがし求めるものは、たぶんこれなのだ、ただこれだけなのだ。つまり生命の実感を味わう ための身を切るような悲しみ。 》 229頁

《 僕もまた意地悪だった、人間はみんな意地悪なんだ……それ以外のものは、人生の途中でどっかへ消えちまった んだ、死にぎわの人間のそばでまだ使い物になる作り顔、それすら僕はなくしてしまっていた、僕はまさしく途中で すべてをなくしてしまっていたのだ、くたばるために必要なものを何ひとつ、悪意以外は何ひとつ、見つけだせなか った。 》 474頁

 語り手の誠実、正直を最後まで感じた。それが作品に品位を与えている理由か。

《 以前の国の習慣は僕らを見捨て、別の、新たな国の習慣は、まだ十分に僕らをぼけさせるところまでいっていない、 そういう人間の時間の流れの中の、例外的な長い明晰な時間のあいだに、生活のありのままの姿を冷酷に見せつけられる、 それが放浪(さすらい)、よそ者というものだ。 》 208頁

 金子光晴の放浪を連想。金子は1928年(昭和3)、海外旅行へ。1932年(昭和7)帰国。37歳。セリーヌが一歳上。 金子の晩年とは真逆。