「書とはどういう芸術か」

 昨日入梅が発表されたけど、きょうになって雨。雨で午後の予定がキャンセルされた。 床屋へ行ったり、ゆっくり過ごす。

 石川九楊『書とはどういう芸術か  筆蝕の美学』中公新書1998年9刷を読んだ。自身の 「書」観と歴史観に貫かれ、一本筋が通っている。戦後の前衛書には手厳しい。

《 井上有一の書からは「ぐわあーっ」という、エネルギッシュだがいささか単純で濁った 声しか出てこない。 》 61頁

《 そしてこの「ぐわあーっ」のストロ−クは、伝統的な書の筆蝕のように緻密、複雑では ないから、タピエスらに容易にまねられたのである。 》 53頁

《 そして、その単純さゆえに、門外漢や若者、外国人はこの「力動感」を書の価値として 安易に受け止め、書の価値を見間違えたのである。 》 53頁

 同感同感。胸のつかえが降りた。

《 遣隋使、遣唐使たちが日本に中国の書を持ちこむ以前に、中国では、紀元前千数百年前 から初唐時代まで二千年近くをかけた前史があり、その歴史的蓄積が、書の美の基本部分を 成立させている。それを象徴的に言えば、石と紙の争闘史であり、刻ることと書くこととの 争闘史、また鑿(のみ)と筆との争闘史である。日本書史は、なによりまず、その書史の 前提を担うことがなかった。 》 142頁

《 中国の書との関連で言えば、日本の書は徹頭徹尾「くずれ」「くずし」の書である。 》  146頁

 明治以降の洋画の移入を連想させる。

《 話された言葉にが肉体と環境を必要とするように、書かれた言葉にも肉体と環境が必要 である。その書かれた言葉の肉体こそが筆蝕であり、文字である。筆蝕とは実に、言葉の肉体 であり、書とは言葉の肉体と環境である。 》 163頁

 ティム・インゴルド『ラインズ 線の文化史』左右社2014年を連想。先鋭的な人は同じ ようなことを共時的に考えている。

 この本を読んで二十年前、北一明氏のカレンダー1994年版に掲載された拙論「創造の 『書』『書』の創造」を思い出した。北氏から書について書いてくれと頼まれ、三週間仕事 以外はこれにかかりっきり、徒手空拳で書き上げた思い出深いもの。これでいいのか冷や汗 ものだったが、カレンダーに堂々と載った。活字から打ち込んできょうネットにあげた。 なお、『書とはどういう芸術か』は1994年12月に出版。私の拙文が一年以上早い。参考には できなかった。
 http://web.thn.jp/kbi/kitashoron.htm

 ネットの見聞。

《 カジノ解禁をめざす「国際観光産業振興議員連盟」の最高顧問は安倍晋三首相です。 依存症患者が自己責任で消費者金融から借りまくった金を「寺銭」で吸い上げて経済成長 しようかという発想を「経済成長依存症」という以外にどう呼べばいいのでしょう。 》  内田樹

《 今年は自衛隊創設60年。自衛隊は一人の戦死者も出さず、一人の外国人も殺していない。 このような軍隊は主要国では全く稀だ。憲法9条が存在し、この憲法下、まがりなりにも 「海外で武力行使してはならない」ことが大原則だったからだ。憲法9条自衛隊員の命をも 守ってきたのだ。この宝を壊すな! 》 志位和夫