「 「私」の秘密  哲学的自我論への誘い 」

 中島義道『「私」の秘密  哲学的自我論への誘い』講談社選書メチエ 2002年初版を読んだ。なんとも破天荒な著作だ。大胆不敵に論を進める。

《 根源にさかのぼる運動が行き着くところは、最終的にそれ以上さか のぼりえない抽象物です。それをあらためて「純粋統覚」(カント)、 「自我自体」(E・アディケス)、「先自我」(フッサール)、「無の 場所」(西田幾太郎)などと名づけて、「根源的な私」(ほんとうの私 ?)とみなすのです。こうした壮大なおとぎ話からの解放こそ、本論に おいてわれわれの目指すところなのです。 》 46頁

《 「私というあり方」は、私が日常的に知っているさまざまな私のあり方の ただ中からあぶり出されるものであって、まず根源的自我にたどり着き、 次にそこからすべてを説明するという仕方で解明されるものではないのです。 》  119頁

《 現在のこの身体と過去のあの身体との関係は、一挙に根源的身体(超越論的身体) をもち出すことによってではなく、あくまで日常的目線にそって具体的に 見ていかねばなりません。 》 136頁

《 時間を捨象しているあいだは、何も見えてきません。私の身体了解は、 私の過去了解を通じてはじめて成立します。 》 140頁

《 なぜ、彼らはいとも簡単に「根源への旅」を開始しようとするのでしょうか。 あらゆる差異性の根源に「一つの未分化な状態」を前提しようとするのか。 そんなものは、ただ過去の了解と他者の了解との差異性を解消するためにだけに 拵えられた論理的構築物にすぎないのです。 》 152頁

《 私の根源は、〈いま〉明確な意識に基づいて現在事象を知覚することや 身体感覚をもつところに求められるのではなく、〈いま〉明確な意識に基づいて 過去事象を想起するところに求められる。 》 168頁

《 他者とは、私がその者に相談できるような者であり、私がその者から相談を 受けることができるような者です。 》 180頁

 「私」の成り立ちと「他者」の成り立ちをを明解に論じていて、え、そうなの? と面食らった気分になるが、そうかも知れない。盲点を突かれたような。凄い本だ。 先達の韜晦な論調は何だったの?

 ネットのうなずき。

《 雰囲気というのは とても計算や技術や努力で出せるものでは ありません。 》 内川義信

 ネットの見聞。

 ドグラ・マグラ銅版画展が八月に催される。出品作家十人。杉本一文 以外は未知の人。私なら故清原啓子の銅版画『Dの頭文字』1980年を 借りて特別出品する。
 http://aki-remains.com/kyusaku/