「 私はどうして私なのか 」

 大庭健『私はどうして私なのか 分析哲学による自我論入門』岩波現代 文庫2009年初版を読んだ。分析哲学がどういったものか、私は知らない。

《 こうしてデカルトは「我おもう、ゆえに我あり」という有名な言葉を 残した(これは「私が考えている。ゆえに私がいる」というのではない。 むしろ、「意識が働いているということは疑いえないのだから、意識作用の 主体であるかぎりの、自分の存在も疑いえない」という意味である)。 》  107頁

 子どもにとっての「私」の成立、会話における「私」の 緻密な分析などが、先人の論考を参照しながら事細かに展開される。

《 自分がいるということは、自分を意識している、ということであり、 自分を意識しているということは、他人によって意識されている、と意識 していることであった。他人によって意識されていることが理解でき、その うえで、誰もが自分の意識内容を語るときに「私」という語を用いる、と いうことが理解できたときに、「私」という語を用いる者としての私が成立 した。したがって、「私」という語の意義の習得にあっては、他人への世界 の現れを想像できねばならない。 》 139-140頁

《 言語習得とともに徐々に形成されてきた自分というものは、実体ではない。 自分というものは、石が実体であり、骨や脳が実体であるような意味では、 実体ではない。自分がいるということは、自分を意識して−いる、という ことである。 》 203頁

 副題にあるように、自我論入門だ。たえずちらついたのが、中島義道『 「私」の秘密 哲学的自我論への誘い』講談社2002年初版だ。どちらも 自我論。う〜ん。考究の仕方はえらく違う。どう違うかは、これから書く、 かもしれない。書かんだろうなあ。恥はこれ以上かきたくないから。
 とは言いつつ、6月22日の日録、中島義道『「私」の秘密』の読書録を 読むと、大庭健中島義道には重なる部分があることに気づく。

《 私たちは、たがいに物件ではない人格として認めあい、呼びかけ・応じ あうことにとって、はじめてそれぞれに自分でありえている。 》 208頁

《 他者とは、私がその者に相談できるような者であり、私がその者から 相談を 受けることができるような者です。 》 『「私」の秘密』180頁

 ネットの見聞。

《 「……難しいことではない。我々は他国から攻撃されかかっているのだと 危機感を煽り、平和主義者に対しては、愛国心が欠けていると非難すればよい のです。そして国を更なる危険に曝す。このやり方はどんな国でも有効です。」 (ゲーリング ニュルンベルク国際軍事法廷 最終陳述より) 》  平野啓一郎

《 国谷氏の追及がオンエアされたのは、単純に生放送だったからだ。 「撮り」だとおそらくは籾井界隈や政権の事前チェックを受けて潰されて いたろう。彼女の質問はしごく平明なものだが、現政権はそのレベルの問い かけでさえパニックに陥る。そろそろこの国のジャーナリズムの心意気を 見せてほしい。 》 Tetsuya Kawamoto