「 インテリアと日本人 」つづき

《 茶室に壁が誕生したのは天正十〜十二(一五八二〜八四)年ころと されている。利休の「待庵(たいあん)」がその最初である。茶の湯の 想いを深めていった結果が壁の出現であろう。壁の出現は、日本の建築 空間にとって、とてつもない事件であった。日本の建築は、壁のない建築 である。建物と部屋とのあいだに建具を入れ、その建具を取り払うと すべてが開放される。 》 120頁

《 非日常空間としての「茶室」には、もうひとつの異態としての空間 表現があった。それは空間を極端に狭くすることである。 》 121頁

《 空間の固定化は日本人がもっともきらうものである。固定化された 空間が「茶室」という形で生れたのである。しかしそうはいっても 「茶室」という空間はそう単純なものではない。固定化し、造形化した 「茶室」が目指したものもまた「ウツ」なのである。 》 122頁

《 利休が意図した造形世界はウツなる造形であった。 》 123頁

《 そうした造形を「無」の造形としてつくり出したのが利休の「茶室」 であった。それは、道具と人と空間との関係をギリギリに見切ることに よって生まれた造形なのである。 》 123頁

《 利休の「茶室」は、日本古来の感覚〈見えないカミ〉を中心に据えた 文化的文脈と、仏教的感覚、死の現実を見据えた感覚〈無常観〉とが、 発展、融合したうえで生まれたものだと私は考えている。 》 125頁

《 「待庵」の異形性をもっとも発揮しているのが、壁の存在である。 しかも黒く塗られた壁の出現は異態としか言いようがない。黒い空間は、 闇の世界である。 》 147頁

《 空間に究極の狭さを与え、内面的には無限をつくり出すという二重の 空間は、かなり意図された行為であり、意識を内面化に向けたものである。 》  148頁

《 意識の内面化は「躙口(にじりぐち)」の存在にも見られる。 》  148頁

《 「待庵」の躙口は閉ざされたときは壁である。 》 150頁

《 だが壁としての躙口は、自由な出入りの否定である。逃げ道のない 閉ざされた内部空間は、異常な内面化をはたらきかける。このどこにも 連続されることのない世界が「待庵」であり、出入口の拒否こそ、待庵 の異形を示しているものだと、私は思うのである。 》 150頁

《 おそらく窓を最初に意識した空間が「待庵」ではなかったのだろうか。 》  150頁

「 『待庵』──究極の二畳空間」の項は、本書の白眉といえよう。 利休、織部そして遠州とつづく茶の湯の美意識の変化。

《 織部が利休の体系を破壊し、革新的な茶を実践したとするならば、 遠州の茶は過去の遺産のすべて、つまり利休のわび茶も、東山文化の 書院の茶も、平安貴族の王朝文化も自由に引用したものであった。 》  162頁

《 いわば織部アバンギャルド精神が、利休の茶に変更を与えたと いう構図である。 》 164頁

《 遠州の茶室は〈関係の再編集〉である。 》 164頁

《 つまり空間をつくるとは、単に形をデザインするという狭義なもの ではなく、室内に帰結されるさまざまな人間の行為や「心」のありようと、 その本質的な意味とともにつくられるものである。デザインとは、その 後に生まれるものである。 》 184-185頁

 読み応えがあった。

 午前中は小学校四年生の源兵衛川を中心に湧水観察のお手伝い。出発 時に雨が上がる。午後、源兵衛川上流部でクレソンを数株抜く。女性 二人からの要望。栽培するみたい。根付きを持っていく。喜ばれる。 お安い御用で。

 ネットの見聞。

《 古文書に「餓死」という文字があってもその年に飢饉があったとは 限らない。その文字は手習いのための文例かもしれない。(網野善彦) 》

 古文書と歴史的事実との齟齬はよくある。文書を鵜呑みにはできない。