「 絵画の二〇世紀 」

 前田英樹『絵画の二〇世紀』NHKブックス2004年初版、前半を読んだ。 ミレーの『落穂拾い』について。

《 落穂を拾う三人の農婦は、注意して見れば、まるで小さく動いている かのように映る。(中略)それは、この絵が人体の動きというものを凝縮 する力に因っている。落穂を拾う彼女たちの長過ぎる腕、大き過ぎる手は、 デッサンの不正確から来るのではもちろんない。彼女たちの時間的な展開 を凝縮し、ひとつのタブローに仕上げる画家の選択が、そうさせるので ある。 》 21-22頁

 本棚には友だちから恵まれた競走馬の線描の板絵が掛けられている。 この絵の特色が、上記の言葉で言い尽くされている。昨日買ったばかりの この本を読んで正解。つづくセザンヌ論がじつに素晴らしい。

《 尊敬さるべきモネから、セザンヌが一線を画そうとした点は、二つ ある。ひとつは、モネが視覚の問題として捉えた〈光=色〉の在り方を、 感覚の問題として根本から立て直すこと。もうひとつは、モネが自然の 色を転写するために使った絵具の色、あるいは色の斑点、これを 〈絵画記号〉としてはっきりと自覚し、その使用法を確立することである。 セザンヌの言う「感覚の論理」は、絵具の色という、この絵画記号に よってこそ展開される。 》 45頁

 この「感覚の論理──セザンヌとモネの違い」から「セザンヌはどのように 描いたか」「距離と深さ」「『モチーフ』と絵画記号」そして「セザンヌ を語るマチス」へとつづく展開には目を見張った。今までのセザンヌ論では 得られなかった納得をやっと得られた。長期にわたった胸のつかえがやっと 降りた。腑に落ちるとはこのことだ。安易な引用は中途半端な理解を招き かねない。

 「マチスにおけるデッサンの可能性」の項ではマチスの言葉が紹介されて いる。

《 彼は言っている。「デッサンにおいては、それがただ一本の線で描かれた ものであっても、その線が取り囲む各部分に無限のニュアンスを与えることが できる」と。 》 58頁

 これを受けて著者は書く。

《 線という絵画記号には、厚みも幅も不要である。けれども、白い平面に 突如として裸体の限りないニュアンスを生み出すものは、厚みも幅も不要な この線の動きではないか。 》 59頁

 《 厚みも幅も不要 》という考えには承服しかねる。描線のわずかな幅 の違いから、かたちはくっきりとその立体造形を顕す。マチスはいざ知らず、 その実例を、私はいくつも見ている。

《 デッサンがそれ固有の生気を持つのは、描く身体の動作と描かれる物 とのこの切り離せない二重性を通してである。 》 66頁

 これにはうなずく。それにしても、数々の箇所で安藤信哉の絵を連想。
 http://web.thn.jp/kbi/ando.htm

《 モダンアートの耀け る画家たちのなかで、ゼザンヌ、マチスゴーギャン等から氏は多くを学んだようです。 》
《 晩成したその絵画では、対象は対象としてそこに確固として在りながら、 そのかたちと色調は解釈に固定される手 前の、瑞々しい感興のままに見事に 引き出され、自在に再構成されています。 》
 http://web.thn.jp/kbi/ando10.htm

 ネットの見聞。

《 まず、第一の傾向は、「最近、50年ぐらい、大きな台風は経験して いない」ということです。それが何を意味するのかは、まだ不明です。 》  武田邦彦
 http://takedanet.com/2014/07/post_a404.html

 ネットの拾いもの。

《 米国アマゾンに、日本の作家の本が機械翻訳(?)で変チキな 英語タイトルになって売られている。
  「 Kakeru Tate girl detective 」←『少女探偵は帝都を駆ける』芦辺拓
  「 Vietnam House Murder Fog(ベトナム邸殺人霧)」←『霧越邸殺人事件』綾辻行人 》