柄谷行人『反文学論』講談社学術文庫1995年8刷を読んだ。1977年-1978 年の二年ほど新聞に掲載された文芸時評集。文字通り反文学論だ。
《 しかし、いま何が必要かとむりに問われれば、私は「理論」だと 答えるだろう。(中略)すなわち文学理論ではなく、「文学」に対抗 する理論なのだ。 》 「22 理論について」
使ってみたくなる言い回しが多い。例えば。
《 だが、氏の言葉は共同化されないで、その”情熱”だけが空転して いるというようにみえるのである。 》 18頁
《 こういう作品は技巧がなければ書けないが、技巧だけで書けるもの ではない。 》 31-32頁
《 しかし、私の好きなフロイトの言葉に、遊びの反対は真剣ではない、 現実だというのがある。 》 49頁
《 つまり、作品の意味内容に偏しすぎて、作品を成り立たせている ”言語”の次元を無視してきたのである。 》 62頁
《 しかしもはや「私とは何か」という問いは問いではない。「本当の 自分は何か」と問うかわりに、いったい「本当の自分」などあるのかと 問うべきである。 》 84頁
《 滑稽になるか、重々しくなるかは紙一重なのだ。 》 110頁
《 私の考えでは、構造主義的な思考が言語学にもたらされたものではなく、 言語そのものが構造主義をもたらしたのだ。 》 112頁
《 実際また、デモクラシーをどう訳すかといえば、下克上とでも訳した 方が西欧史においても正確だろう。 》 114頁
《 彼らの文章にはおよそ”毒”がない。しかし、”毒”を欠いた文章が 文学たりうることはまずありえないのである。 》 115頁
《 小説としての冒険は一つもない。これほど無邪気に「表現」を信じて いるひとがいるのは、むしろ驚きであえる。 》 123頁
《 さらにいえば、体言止めの多い文章は、思考の飛躍というよりも、 思考の回避のようにみえる。「映像的思考」などというより、認識的怠惰 にすぎない。 》 149頁
《 国家や権力は、たんなる暴力装置ではなく、またたんなる幻想でもなく、 こうした法=文法的な論理のつみあげに存する。 》 162頁
《 たとえば近代文学は「自己表現」とともにはじまっている。そして、 「純文学」はまさにその「自己」への誠実さにあった。 》 171頁
《 しかし、ある時代をそうと知らずに本質的に体現した作家は、その パラダイムをこえることはできないのだろうか。 》 201頁
最後の引用、胸にしみじみと痛切に迫る。例えば歌手の藤圭子、山崎 ハコ。例えば画家の……。
昨日よりも暑く感じられるきょう。食料の買いもの以外は家でゆっくり。
ネットの見聞。
《 種村季弘展、詳細が決まりました!まずはタイトル発表!
「種村季弘の眼 迷宮の美術家たち」に決まりました。 》 板橋区立美術館
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