「 唯脳論 」 

 養老孟司唯脳論青土社1998年31刷を読んだ。「唯脳論とは何か」 にはじまる前半はふむふむと学習モード。

《 ヒトの脳を、脳と呼ばれる器官の法則性という視点から、全般的に 眺めようとする立場を、唯脳論と呼ぼう。 》 13頁

《 しかし、脳に存在するのは意識だけではない。フロイドはだから 「無意識」を「発見」したのである。私はそれとは別な「無意識」を 発見したと思っている。それはたとえば数学である。数学の論理は、 それがある形で脳内にあるからこそ、見つかるのである。しかし、 数学者は、そのこと自体をを「意識してはいない」。 》 25頁

《  唯脳論は、世界を脳の産物だとするものではない。前章で述べた ように、意識的活動が脳の産物だという、当たり前のことを述べて いるだけである。 》 42頁

《 「心」は、再言するが、あくまでも神経系の機能である。脳は、 厳密には、神経系の一部をなす構造である。 》 55頁

《 一つだけ強調したいことがある。それは、脳は複雑怪奇な構造を しているが、個々の神経細胞の機能からすれば、複雑ではないことで ある。神経細胞が連結しあい、興奮するか、抑制される。それだけで ある。それでどうして、記憶や、心理や、計算や、夢が生じるのか。 複雑怪奇なのは、そこである。 》 75頁

《 ただし、そういう余分の能力の発生が、進化の過程で一回だけ、 かなりの規模で起こったらしい。それはヒトの脳が生じたときである。 つまり、われわれの脳は、九九の能力に象徴されるような、状況依存性を、 多数ためこむことになったのである。 》 88頁

《 そして、言語こそ、典型的な脳の産物に他ならない。言語は脳の、 それもおそらく連合野の機能の、運動系による表出である。 》 108頁

《 しかし、ヒトの脳ほど大きくなれば、中味のことがある程度 わかって不思議はない。つまり、ヒトの脳は、外界だけではなく、 自分の脳に気がついてしまった。 》 118頁

《 デカルトを我流に翻訳するなら、「私が考えている」と言語で 表現される状態(cogito)があって、それはつまり「私が存在する」 と言語では表現される状態(sum)なのである。それがつまり脳の 機能であり、だからこういうこと全体が言語で表現される。なぜなら 言語こそ典型的な脳の「意識的機能」、つまり「脳が脳を知っている 状態」だからなのだ、と。 》 123頁

 後半は、解剖学を哲学、物理学、歴史などの分野へ敷衍、現代日本 への批判となってゆく。これは、発展途上だか退化途上だかわからない 我が脳を奮い立たせる。じつにオモシロイけれど、要点からズレズレに なりそうで、安易な引用はできない。章題は「意識の役割」「言語の発生」 「言語の周辺」「時間」「運動と目的論」「そして「脳と身体」。

《 つまり、状況が変化したから視覚言語が生れたのであって、ヒトが 変ったから、視覚言語ができたのではない。 》 153頁

《 外界の事物は、ただなにげなくそこに存在している。しかしわれ われの脳はそれを、聴覚や運動系に依存して、時を含めてとり込む。 あるいは視覚系に依存して、時を外してとり込む。この二つが脳の中で 「連合」するのは、そう簡単ではなかろう。 》 155頁

《 生物が生きている自然の環境で、音と光は必然的に結びつくもの ではない。両者が異質であったからこそ、光と音に対する受容器、 すなわち目と耳とは独立に発生し、進化した。 》 161頁

《 つまり、形にもっとも欠けていたものこそ、リズムすなわち時間 における繰り返しであって、ヒトの意識はまさにそれを「連合」した。 その基本的な連合は、まず言語として表れる。つづいて、「形は リズム」になる。 》 193頁

《 歴史意識とは、ある文化に置かれた脳の典型的な時間意識である。 》  225頁

《 根拠のない推測をするのは脳の癖である。しかし、脳がそういう癖を 持つことは、「客観的」「実証的」真理が「脳の外に」存在するという、 なんの証拠にもなっていない。 》 249-250頁

《 われわれは自分の脳についてさえ、まだ統一して理解していない。 》  254頁

《 脳化=社会で最終的に抑圧されるべきものは、身体である。 》 258頁

 後半は特に再読の要。

 昨夜、沼津市狩野川花火大会から自転車で帰る途中、ブックオフ 長泉店へ寄り道。マイクル・コナリー『ナイン・ドラゴンズ(上・下)』 講談社文庫2014年初版、計216円。今朝、ブックオフ長泉店へ自転車で。 宮部みゆき『ソロモンの偽証 第I部 事件』新潮社2012年初版145円、 田中哲弥『やみなべの陰謀』ハヤカワ文庫2006年初版108円、計253円。 前者は、これで三巻揃った。後者は、萩尾望都との対談で吾妻ひでおが 推薦していた。
 http://www.hagiomoto.net/news/2014/07/post-180.html

 日が暮れて北を望むと、昼間は雲に隠れていた富士山が切り絵のよう。

 ネットの見聞。

《 夏目漱石高浜虚子志賀直哉といった文豪も娘義太夫ヲタだったそうで、 中でも直哉は、推しの昇菊・昇之助を「神に近し」と称えるほどのガチヲタだった。 アイドルにドハマりした文化人知識人が、タガを外してあらぬことを口走るのも、 あるいは日本の伝統なのかもしれない。 》 栗原裕一郎
 http://realsound.jp/2014/07/post-960.html

《 ろくでなし子さんの騒動の顛末がどうであれ、日本でも統一 されていなかった女性器名称が一気に海外メディアで「MANKO」と 表記された事で彼女はすでに歴史の1ページになったと思うのだけど。 》  Maki Oshita