「墨汁一滴」

 正岡子規『墨汁一滴』岩波文庫1994年29刷を読んだ。

《 などあるを見るに古の人は皆実地を写さんとつとめたるからに 趣向にも画法にもさまざまな工夫して新しき画(え)を作りにけん。 土佐派狩野派などといふ流派盛になりゆき古の画を学び師の筆を模するに 至りて復(また)画に新趣味といふ事なくなりたりと覚ゆ。こは画の上 のみにはあらず歌もしかなり。 》 15頁

 画家を自称するならば、描く対象は画家にとってリアル、切実に迫る ものでなければならない。風景でも内面の情景でも、それはかまわない。 それとの切り結び方が、絵の良し悪しを左右する。息を呑むような絵を 見たい。K美術館ではそのような作品をいくつも収蔵、展示していた、 と自負する。まあ、作品をさほど評価しない人もいただろうが。

 富士山と薔薇を描けば売れる、と知人の絵描きは言う。それに私は 美人を加える。彼は富士山も薔薇も美人画も描かない。美男画という ジャンルは仄聞にして知らない。あるかもしれないが。富士山の絵で 感銘した作品は少ない。葛飾北斎木版画二点の他にあったかな、 としばし記憶を巡らすが、なかなか浮かばない。良い絵はあるが、息を 呑むような富士山の絵はなかなかお目にかかれない。富士山を立派に 描いた絵はよくある。が、それは絵の先に立派な富士山を見通して いるから。絵が素晴らしいのではない。薔薇の絵も美人画も同様だ。 絵の先に実在の豪奢な薔薇を、好みの女性を見ている。

 鏑木清方美人画『築地明石町』を好む。こんな美人を恋人に した……くはないが会ってみたい。絵に感心したのか、モデルに目を 奪われたのか。かような凛とした女性画を、経験不足で他に見たことが ない。これが傑作である証かもしれない。凛……ツンデレへ崩れる心配は ある。宗教画には祈る女性またマリア像に崇高の美を魅せる作品があるが、 それはまた別の話。

 二十一世紀はカワイイ女性像がもてはやされている。可愛いではなく、 カワイイ。そこには鏑木清方の絵に見られる深みのある凛とした佇まいが 欠けている。だからカワイイなのかも。深く考究すると迷路に入り込む。 アブナイアブナイ。

 絵は何を描いたかではなく如何に描かれているか、が重要になる。 線、色の配置、筆触、技法が渾然一体となって作品を構成している。 画家が心を込めて描いた絵全体から伝わる深い眼差し、心の深い波動が、 見る者の心をその深い波動に巻き込むか否か。波動は伝わるけれども、 見る者の心を動かすまでには至らない絵がほとんどだ。あるいは、私の 感性、感受能力がさほどではないのかもしれない。

 ついこの間まで国産輸入を問わずビールを飲み較べていた。結局、 店で飲む樽出しのギネスが一番好みは揺るがず。季節は秋に。 薄い水割りで飲むウィスキー富士山麓のオマケについていた SNYDER'S OF HANOVER 56.6グラムをつまんだら一袋を空けてしまった。いかん いかん。

 某装丁家のウェブサイト、装丁秀作選として半村良『妖星伝』を紹介。 横尾忠則の装丁で全六巻と。最終巻の第七巻『魔道の巻』1993年3月刊が ある。第六巻『人道の巻』が1980年の刊行だから忘れていたのだろう。 祥伝社文庫には『完本 妖星伝 3 終巻 天道の巻・人道の巻・ 魔道の巻』1998年初版がある。久しぶりに読み返したくなったなあ。