「 どちらでもいい 」

 アゴタ・クリストフ『どちらでもいい』ハヤカワepi文庫2008年初版を 読んだ。堀茂樹の「訳者あとがき」から。

《 そんな事情も手伝って、この短編集は、より完成度の高いA・ グリストフ作品と関係づけながら味読されるときにこそ存在価値が 上がるのにちはいない。 》

 そのように読むしかない。そして短篇掌編の多くに他界からの眼、 あるいは末期の眼を感じる。寂寥感が沁みる。「運河」の冒頭一行。

《 男は自分の人生が立ち去っていくのを眺めていた。 》

 「訳者あとがき」から。

《 いずれにせよ、A・クリストフの文学は、未来への希望だの、 生きる勇気だのを与えてくれる健康な文学ではない。 》

 だから好感をもつ。最も気に入ったのは「街路」。その冒頭一行。

《 子供の頃すでに、彼は街路を散歩するのが好きだった。 》

 彼は音楽学校へ進み、ヴァイオリンの演奏会に臨む。笑われる。

《 「近頃では、芸術においても感情は敬遠されることが多いからね。 科学の真似だか何だか、むしろ無味乾燥なのが流行している。 ロマンティシズムというか、とにかくそれに類するものはすべて、 時代遅れで、嘲笑の的になってしまう。恋愛までもだ。」 》

 毎日新聞夕刊に藤森照信赤瀬川原平の追悼文。

《 路上観察の合宿のおり、なぜ、画家の道から離れたかについて聞いたことがある。
  「戦後のアヴァンギャルド隆盛のなかで身を投じ、既存の芸術の破壊を旗印に いろんな反芸術的表現を試み、裁判にまでなったが、そのうち反芸術的表現も根は 自己の表現であることが嫌になって、止めた」 》

《 反芸術を掲げながらあくまで自己表現のうちに留まる欧米のアヴァンギャルドを尻目に、 日本の戦後の前衛は、自己の身を破るところまでジャンプしたのである。 》

 ネット注文した川路柳虹詩集『波』西東社1957年並製五百部限定帯付、 古書値2600円が届く。深沢幸雄の装丁目的で購入。

 午後、隣の函南町の仏の里美術館へ友だち知人と行き、来年の春催す 子どもによる仏の絵の展覧会の打ち合わせをする。その後、長光寺住職の案内で 近くにある長源寺へ。山腹に文化三年に開かれた「西国三十三体観音霊場」がある。 急峻な坂だけれど、いつか巡ってみたい。
 http://www.kannami-museum.jp/index.html
 http://chokoji-showashohirin.com/fuji.html

 ネットの見聞。

 『大日本零円札(本物)赤瀬川原平、1970』 五萬円
 「日本の古本屋」に出品

《 後期高齢者の次は末期高齢者、その次は臨終高齢者、 さらにその次は転生高齢者、ナンチャッテ。 》 横尾忠則

 ネットの拾いもの。

《 「メイドカフェの次はアンドロイドカフェかなぁ」 》