「 千利休 無言の前衛 」

 忘れてた。昨日はキティちゃんの誕生日だった。同じ誕生日だ。

 赤瀬川原平千利休 無言の前衛』岩波新書1990年初版を読んだ。再読の気がするが、記憶無し。

《 声を発して説き伏せるものと、無言で示すもの。一方は言葉の経済が支配し、 他方はその経済をすり抜けていく。 》 20頁

 無言の美の世界。引きの表現。引きが惹きをもたらす。小原古邨の花鳥木版画を思う。

《 こうして芸術という概念は、上昇するところを常に前衛芸術に引き戻されて、 日常感覚のところまでダイレクトに、次第に露骨に接着される。そのたびに芸術の概念そのものが、 揺すぶられて、引っくり返されて、つかみ直されて、もはや崩壊寸前のきわどい形になってくる。 》  30頁

 この前後、日本の前衛芸術の盛衰、顛末を語っていて、じつに興味深い。

《 もはや何物かを作るよりも、世の中を見ていたほうがはるかに面白い。 》 34頁

 そしてトマソン物件との出合いと発見。

《 これらは「超芸術」と定義された。その無機能性による存在のありさまが、 芸術作品と共通しながら、芸術作品よりさらに一段と無価値のゴミに近い、 というところでの命名である。 》 35頁

《 では表現かというと、自分では何も表現などしていない。だけど異常に面白いのだ。 》  42頁

《 熱海のMOA美術館に、秀吉の金の茶室を復元したものがある。すべて純金かと思ったが、 見ると表面だけの金箔張りなのでちょっと拍子抜けした。もっとも金箔一枚ではなく数枚を 重ねて張ってあるらしいが、それがしかし木地と伸縮率が違うのか、ところどころ その金箔全体が浮き上がって、表面に皺が寄っている状態にがっかりした。 》 77頁

 昨日「金箔の張子」という言葉を使ったが、これはまずかった。金箔ではなく純金の薄板だ。 純金の張子ならいいかな。純金には縁がないのでチョンボした。愛用の万年筆は14K。K点、 K2……3K、4K、JK、OK、NHK、NG。

《 私は得したと思った。この金の茶碗の感触は、見るだけではわからない。 持ってみなければわからない。 》 165頁

 おお、私と同じことを書いている。絵画は原則視覚芸術だが、茶碗は視覚と触覚の双方で味わう。

《 私が思い浮かべた楕円の茶室ではないが、利休もこの茶碗に二つの焦点を見たのだろう。 見かけの物質では計りきれない価値というものを、分析的に知ったのである。 》 165頁

 この金の茶碗は、木型の上に金をかぶせたもの。だから持つと思いのほか軽い。金だけだと、 熱伝導率の関係で熱くて持てない。

《 物の新しさは簡単に言葉で説明できるが、それを見る目の新しさ、見方の新しさは 説明しにくい。 》 203頁

 そのとおり。

《 何ごとかを説明し、説得する、というようなことからはいちばん遠い人だと思うのである。 》  204頁

 これまたそうだなあと同感。気づかない人には説明、説得は無用。

《 沈黙がスタイルとなったときに、沈黙は堕落する。 それはただ重苦しいだけのものとなるのだ。 》 208頁

《 同じようなことをなぞるなというのは、時代は動いているということの教えでもある。 》  222頁

 このへんの論述はじつに深い射程を持っている。目の覚めるような展開だ。

《 西欧文明は何といっても「自」によってふくらんできた。日本もそのふくらみに入ろうとして、 懸命に「自」を持ち上げている。 》 237頁

《 人の恣意を超えてあらわれるもの、そこにこそ得がたいものを感じる。 》 238頁

 小原古邨の初期の木版画、安藤信哉の晩年の水彩画、味戸ケイコの初期の鉛筆画を思い浮かべる。
 『千利休 無言の前衛』は、赤瀬川原平を考えるうえでの重要文献である気がする。

 ブックオフ長泉店で文庫を四冊。高木彬光『魔弾の射手』角川文庫1979年初版帯付、柄刀一 『ペガサスと一角獣薬局』光文社文庫2011年初版帯付、フィリップ・カー『静かなる炎』PHP 文芸文庫2014年初版、ミネット・ウォルターズ『養鶏場の殺人/火口(ほくち)箱』創元推理文庫 2014年初版、計432円。

 ネットの見聞。

《 しつこく赤瀬川さんの死について考えている。ネオダダに走る大きな転機となったのが伊勢湾台風。 弟を背負って胸まで水に浸かりしかも泳げない。あのとき九死に一生を得たのは大きかった。 それまでの暗い気分が吹っ飛んだと仰ってた。伊勢湾台風は東松さんに与えた影響も大きい。 いずれ後美術論で書く。 》 椹木 野衣

 ネットの拾いもの。

《 友達をなくしたくなかったら避けた方がいい話題;信仰、支持政党、贔屓の野球チーム、 そして本格ミステリの定義。 》

《 壁丼始めました 》