富士山は雪化粧。晴天。午後「土木学会100周年記念式典」にてグラウンドワーク三島の 「市民普請大賞」グランプリ表彰式。渡辺豊博専務理事が、記念式典に御臨席される 皇太子殿下に、当法人の取り組みを直接報告。私は事情あって欠席。
http://www.gwmishima.jp/
丸谷才一『遊び時間』中公文庫1981年初版を読了。名エッセイ集と言えよう。 1976年に出たものだけれど、古びるどころか、今こそ新鮮さを感じる。軽快な文章だが、 裏打ちがしっかりなされていて、軽薄とは裏腹の学識の深さ、豊かさを感じる。
《 一般に、再評価の試みほど、文学的気流の変化をはっきりと示すものはない。 》 89頁
《 第三。左翼的とは言はないまでも、社会的な関心を持つてゐる日本の文学者が いちばん不得手なことは、みじめな運命にさいなまれてゐる登場人物たちが、 それにもかかはらずなぜ生きつづけるのかといふ条件をつひに示し得ないことであつた。 石牟礼はそこのところを、一葉舟での貧しくてしかも豪奢きはまりない饗宴といふ 至福の思ひ出を描くことで一気にくぐり抜けた。彼らの生の根拠を示したのである。 》 115頁
「第四章 天の魚」の「海石」の項だ。丸谷の引用は以下の文で終わっている。
《 婆さまよい、あん頃は、若かときゃほんによかったのい。 》
この行に私は付箋を貼ってある。集中の白眉だと思う。この一致は嬉しい。
《 作家は、人類数千年の文学史の伝統の力によって作品を書くことができるのである。 そして、優れた作品を伝統の秩序のなかに正しく位置づけることこそ、批評家の究極の 仕事にほかならぬ。 》 148頁
北一明の焼きものは伝統を推し進めた作品であるとやはり思う。小原古邨の木版画は、 伝統を受け継いだ近代の視点から花鳥を描いているように思える。川瀬巴水は近代人の目で 日本の風景を描き、高橋松亭は、内なる江戸をもとに懐かしき風景を描いているように思える。
《 この翻訳の出現は、まさに文学的事件である。(中略)古語や雅語の使ひ方の巧妙さは、 この引用でも判ると思ふ。 》 172頁
寿岳文章の訳になるダンテ『地獄篇』の評だが、私にはしっくりこなかった。後に読んだ 平川祐弘の翻訳はスッキリ読めた。
引用したい卓見はごろごろあるが、端折って掉尾を飾る「チャーチルとトウィッギー」から。
《 ポップ・カルチャーは明らかに十九世紀以前の様相へ、つまり、十八世紀へあるいは もっと以前の、若者と娘の服装が同じやうに花やかな時代へ戻さうとしてゐる。 》 307頁
《 これではポップ革命の本質は、日本にはつひに伝はり得ないのではないかとぼくは 恐れる。現在の日本では、文化が本質的に優雅と洗練を愛するものだといふことが とかく忘れられがちで、政治的デモクラシーの直訳じみた、あるひはむしろ悪訳と 呼んでもいい、平俗で低俗なものとして、庶民文化が解釈されてゐるやうな気がする。 》 308頁
ブックオフ沼津南店へ自転車で行く。文庫本を四冊。尾崎翠『第七官界彷徨』河出文庫 2009年初版、楠見千鶴子『ギリシア神話の女たち』ちくま学芸文庫1995年初版、平松洋子 『世の中で一番おいしいのはつまみ食いである』文春文庫2008年初版、同『忙しい日でも、 おなかは空く。』同2012年初版、計432円。
ネットのうなずき。
《 よく考えてみよう。エネルギー自給率4%の国(日本のことだよ)が生き残るには、 他国と余り軋轢を起こさずに、ダマシダマシ付き合うしかないのだ。居丈高になればなるほど、 バカにされるだけだ。それがわからない人が首相をしている国ニッポン。 》 池田清彦