一昨日採りあげた赤瀬川原平『睡眠博物誌 夢泥棒』「あとがき」の一節。
《 この本の「悪夢十七番」の中で、私は夢と前夜の食事との関係を追求したが、この初夢の 前夜の食事はというと、一月一日、わが一家は滝山団地の某山某三郎のお宅で某況劇場の 某十郎氏御一家ともどもお正月のゴチソーにあずかっていた。 》
嵐山光三郎、情況劇場、唐十郎だろう。東京都東久留米市の滝山団地なら原武史 『滝山コミューン1974』講談社2008年6刷だ。
《 マンモス団地の小学校を舞台に静かに深く進行した戦後日本の大転換点。たった一人の 少年だけが気づいた矛盾と欺瞞の事実が、30年を経て今、明かされる。 著者渾身のドキュメンタリー。 》 帯文から。
《 私は一九六九年から七五年まで、小学1年から中学1年までの六年あまりを、6─2─10、 つまり滝山団地2街区10号棟で過ごした。 》 12頁
《 自分の目の前にある小学校で起こった出来事は、脳裏に刻み込まれたまま、 時間の経過に伴う風化の影響を少しも受けていない。それは、私の人生に消しがたい トラウマとして残ったのである。 》 17頁
「全国生活指導研究協議会、略して全生研」の理念が着実に実行されたのが、滝山団地の七小、 原武史が在籍していたとき。若き熱血教師の指導のもと、そこで何があったのか。 じつに生々しい描写がつづく。
《 ──そうそう、僕たちはまだ、十一歳の子供だということを忘れちゃいけないよな。
これはまことに単純な発言ではあったが、ある核心をついていたように思う。 「滝山コミューン」に対して、当時の私が抱いた最大の違和感は、なぜ子供が背伸びして 大人のまねをしなければならないのかというところにあった。 》 153頁
《 私は言葉によって説得される前に、身体ごと集団に同化させられてゆく感覚に、 何ともいえない気持ちを覚えた。 》 168頁
《 しかし、ここで問題にしたいのは、自らの教育行為そのものが、実はその理想に反して、 近代天皇制やナチス・ドイツにも通じる権威主義をはらんでいることに対して何ら 自覚をもたないまま、「民主主義」の名のもとに、「異質的なものの排除ないし絶滅」 がなぜ公然と行われたのかである。 》 212頁
《 テキストに書かれたものだけが歴史ではないという、現在の私につながる問題意識は、 思えばこのときの体験に根ざしている。 》 244頁
最終章は「12 コミューンの崩壊」。
《 八〇年代に入ると、全生研の会員数はようやく五千人を超えるようになった。しかし 従来の「学級集団づくり」が維持できなくなるのは、」もはや七小だけではなく、全国的な 現象となっていった。 》 272-273頁
《 その背景には、激増する校内暴力やイジメに加え、登校拒否の増加という問題があった。 》 273頁
集団集中体制に対する著者の違和感に深く共感。私自身は中学生になってから学校への 違和感が芽生えた。それにしても、小学生の時のことをこれだけよくも覚えているものだ。 大したものだ。午後、歩いていると初老の男性から声をかけられた。小学校の同級生らしい。 私の記憶はそんなもの。
ネットの拾いもの。
《 48歳おっさんの僕からすると、AKBやSKEのような少女アイドルは「可愛いって意味では もう恋愛対象じゃなくってハムスター」って感覚で、エグザイルに関しては「目を離すと 勝手に増えてるって意味でのハムスター」なんだよね。 》