「 残虐行為への展覧会 」

 椹木野衣『後美術論』美術出版社、「第5章 残虐行為への展覧会 」を読んだ。章後半ではSF作家 として知られるJ・G・バラードに多くが割かれている。バラードは、十代末に早、魅了された作家。 論考は、またまた私にとってはアクロバティックな展開、超絶的な関連づけに舌を巻く。興奮の連続。

《 内宇宙の探求とは、神秘化された不可視のものとされた「内部」を「外部」化するための、「書く」 という具体的な「方法」を指す。 》 221-222頁

《 このように、バラードの文学は一見して観念的に読めたとしても、その難解さは決して コンセプチュアル・アートのそれではない。 》 222頁

 バラードの小説世界が、それまでとは全く違った相貌を見せる。想像力によって構築された 構造物の上っ面を自分は滑降するだけだな、とやや情けなく感じてしまう。それにしても、 以下のエピソードはなんとも面白い。

《 モダン・アートには惹かれなかった彼が、なぜ、方法的には新しいところのない古典絵画に 釘づけになったのだろう。(中略)フィレンツェウフィツィ美術館を訪れた際、レオナルド・ ダ・ヴィンチの作品を見ようとしたバラードの前を、日本人の団体客が遮ってしまった。そのとき、 バラードは理解した。かれらがこれらの絵画の背景にあるキリスト教の神話やラテン語の知識を 持っているとは思えない。日本人は完全に自由な想像力だけで絵を見ている。普通の西洋人であれば、 たんにかれらを軽蔑しただけだったろう。(中略)あろうことか、彼はほとんど無知のまま ルネサンス絵画に対面する日本人の団体旅行客の姿から、東方の「他者」ではなく、古典絵画に 強く惹かれていた自分自身の姿を引き出すのである。(中略)そしてかれらの様子を「憐れむ」 どころか、美術を鑑賞するうえで、西洋で作品にまつわり前もって与えられる知識や解説が、いかに 真の絵画体験を損ねてしまっているかについて思い当たるのである。 》 224頁

 この章で論及されているバラード『残虐行為展覧会』工作舎1980年初版は未読だった。本棚から 取り出す。しかし、一昨日のC・G・ユング『ヨブへの答え』みすず書房といい、これらをいつ 読めるだろう。

 金子國義の訃報がネットを巡っている。彼を意識した最初の絵は、ジョルジュ・バタイユ作品集 『マダム・エドワルダ』角川文庫1976年の表紙。金子國義は一般には富士見ロマン文庫の装丁で 知られているかな。富士見ロマン文庫は題名で買っていたので、手元には十一冊。作者不詳 『エロティックな七分間』1977年7月30日初版とシェイラ・ブラディ『カリフォルニア ゼネレーション』 1977年9月10日初版の絵の構図がほとんど同じことに気づいた。頭部は同一といっていい。 女性のポーズもほぼ同じ。でもロマン文庫、一冊も読んでない。

 ネットの見聞。

《 ライトノベルは文学か? まあ、成功したジャンルにはありがちなことで……。昭和30年代の 「宝石」の評論特集読んだけど、松本清張の大ブレイクによる推理小説の急成長を受けて文芸評論家が 押しかけてきて、社会派ヨイショと(名前は出さないものの)横溝disりしてるのを見て スゲーなと思いました。 》 芦辺拓

《 とはいえ「文学全集」に鮎川哲也仁木悦子、島田一男が入るようなことは、1960年代の 一時期を除いてなかったわけで、当時の推理小説がどれだけ大きな勢いを持っていたかがわかる。 それは、今も再現されていない。 》 芦辺拓
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 本棚から『新日本文学全集 22 佐野洋 多岐川恭集』集英社1963年初版を抜く。第2巻は 『鮎川哲也 仁木悦子集』、第21巻は『高木彬光 島田一男集』、31巻は『松本清張集』。 江藤淳の解説から。

《 惟うに、大体昭和三十四・五年以降、日本の読書界は推理小説の人気で湧きかえっている。 この傾向は当分つづくであろう。 》

《 オバマ氏側近 辻元清美氏と面会し安倍首相の歴史認識を牽制 》 NEWSポストセブン
 http://www.news-postseven.com/archives/20150317_309895.html

 ネットの拾いもの。

《 「TLの眠りを覚ますヒュアキントス 並ぶ書影に夜も寝られず」 》