「 紫の遍歴 」

 昨夜、ハリス・アレクシーウの2012年のCDを聴きながら2012年、明大前駅そばのキッド・ アイラック・ギャラリーでの福山知佐子さんの個展で買った小さな絵を眺めていて、不意に 閃いた。私は紫に惹かれる、と。好きな色は青か白だと思っていた。福山さんの二十センチ 足らずの丸い抽象画は、CTスキャンした脳の画像に紫を主に色付けしたもの、また北極から 俯瞰した北半球を流動化させたもの、ともとれる一種異様な絵で、会場で観た時思わず退いた。 なんか恐かった。けれども、他ではないこれを買った。紫の不吉な予兆におののいても。これは K美術館で展示する機会はなかった。今こうして手にしてまじまじと見つめると、あの時の恐れと おののきはどこかへ霧消、紫の複雑な流れが生み出す言い知れぬ偶然性を絵画に定着させた、 彼女の手腕と覚醒に思いがゆく。おそらく、初見の時のおののきは、生の不安を直感したせい、 だろう。一目惚れではなく、その反対。生の不安といえば、味戸ケイコさんの初期の絵に顕著な 生の不安感には、自らの沈み落ち込んだ心情を掬い、救い上げてくれる蜘蛛の糸の感があった。 福山知佐子さんの絵は、忘れていた不安を不意に露出、顕在化させた。一歩身を引いたけれど、 これは買わなくては、と直感した。そして今、その絵は花の演繹だと思い至った。今、部屋には 味戸、福山お二人の絵を対置してあるが、自分の人生の径庭を測るような気分。
 花の紫。味戸さんにも紫系の色が多く使われている。紫といえば、先だってその独特の格調高い 幻想世界を堪能したヴァーノン・リー『教皇ヒュアキントス』の紫。この本の紫の帯を毎日眺めていて、 なんでこんなに眺めているんだろう、と不思議だった。紫、なのだ。古くはカスパルダヴィッド・ フリードリヒの夕暮れの紫。先だってMOA美術館で観た尾形光琳の『燕子花図屏風』の紫(濃紺か)。
 思いつくままに挙げれば、西郷輝彦の歌の一節、「♪山紫の夜が来る♪」、歌手の名前も忘れて しまった歌の一節「♪薄紫の藤棚の下で歌ったアベマリア♪」、丸山(美輪)明宏『紫の履歴書』、 季刊『銀花』で知って青山の展示場へ行って観た貝紫で染められた着物。芝木好子の小説『貝紫幻想』。

  あかねさす紫野行き標野(しめの)行き 野守は見ずや君が袖振る   額田王

  少女らに雨の水門閉ざされてかさ増す水に菖蒲(あやめ)溺るる  松平修文

  花泊夫藍 イエスうつしの講師来て女子大学は揺れつつしづか  小林紀子

  学生にうすむらさきの目を与へ異郷とならむ法医学教室  奥山省

  ゆふぐれの街をゆくひとそれぞれにむらさきあはき孤独を灯す  松本勝

 昔、紫を読み込んだ詩歌を書き留めた。その大学ノート、どこかにあるが。

 ヴァーノン・リー『教皇ヒュアキントス』国書刊行会2015年に中井英夫『幻想博物館』平凡社 1975年の新装愛蔵版を並べる。林由紀子さんの手彩色銅版画と建石修志の鉛筆画(?)が交響する。 前者には林由紀子さんの、後者には中井英夫氏の、献呈署名。お宝だ。

 本棚を眺めていて気づいた、中央公論社から1970年頃に出版された『日本の詩歌』全三十巻、 函の背と本は薄紫(藤)色だ。本文下段の注釈と挿絵、栞紐も。

 ネットの見聞。

《 価値判断基準を内面に持たず、自分の周囲の人間の動向にそれを求める人間は、大勢が決した、 勝負はついた、という「形式」を作られると弱い。意気消沈して、抵抗をやめてしまう。 その習性を熟知する首相周辺は、憲法問題など様々な分野で、既に勝負はついたかのような 「形式」を一気に作り始めている。 》 山崎雅弘
 https://twitter.com/mas__yamazaki

 ネットの拾いもの。

《 ♪ 都会では、自炊する、若者が、増えている 増えている。けれども問題は、今日の雨、 傘がない。行かなくちゃ、コメを買いに行かなくちゃ ♪ 》

《 カップラーメン待っている間に某掲示板見ていたら「300℃の熱湯使えば1分でできる」 というタイムリーなスレを見つけたんだけど「マイナスのお湯を使うとどうなるか」 「ー100℃で作った場合、"3分前に出来ていた"ことになるのではないか」 という哲学な内容になっていて見入ってたら麺伸びてた。 》