『 ピモダン館 』

 齋藤磯雄『ピモダン館』小澤書店1984年初版を読んだ。後記より。

《 風のまにまに吹き散らした雑文走筆戯語閑話のたぐひ──去歳(こぞ)の落葉の三の一を 危うくも拾ひ集めて一巻を編んだ。 》

《 敗戦後の所謂(いはゆる)「雲助文法馬丁文字」に改変されたものは、本書収録に際して 之を訂正復元するを得た。 》

 悲しい哉、我が私用電脳機器では歴史的漢字表記は無理難題故、簡略漢字也。嗚呼。

《 ──年古りた石造大建築の深い谷間。かぐろい街路樹に残る枯葉もまれな肌寒い晩秋の 薄暮。足音の高く冴えわたる人影まばらな石畳。齢(よはひ)やゝ闌(た)けて気品ある 婦人の、喪に服してゐるのか、黒と灰色の衣装。その物憂げなアルトの緩徐調(アダージョ)。 一切は古色を帯びて、何かしら現代離れのした雰囲気があつた。 》 「ピモダン館」

 ボードレールの住居ピモダン館(やかた)を訪問した時の記述。やや古風で典雅な文章に 惹かれる。

《 これを彼はピモダン館に於る二年間の生活で蕩尽し、さらに莫大な借金をつくつたのである。 ダンディーの閑暇と、奢侈と、耽美の生活。見事な使ひつぷりだ。これによつて未来の『惡の華』 の大詩人は「他の文士ども」を「無知蒙昧な下賤の土方」と言ひ切るだけの普遍的な教養と至高の 審美的感覚を身につけたのである。しかし芸術家としての幸ひは、悲しいかな最も屡々、 人間としての禍ひであるから、「負債の結果たる屈辱」が生涯詩人につきまとつたのは、所詮 またぜひともないことであつた。 》 「ピモダン館」

 負債にも夫妻にも縁のなかつた私は幸ひなるかな。

《 ──言語藝術に適用された絵画と音楽の驚くべき技法。造形と色彩の秘儀、律動と諧調の魔術。 特に、抑制と激発を自在に駆使する至高の交響的手腕。──詩集『惡の華』にひそむ審美上の 本質的な独創性を看取するには、マラルメヴェルレーヌランボーの炯眼を俟たなければ ならなかった。…… 》 「モンパルナスの『惡の華』記念碑」

《 読みの深さが違ふ。『惡の華』の最も苛烈な作品にさへ、常に感じとられるものは、 この穢れなき感性にふるえる、名状し難い純潔だ。…… 》 「モンパルナスの『惡の華』記念碑」

 翻訳でそこまで看取できるだらうか。……。私には無理だらう。

 ネットの見聞。

《 「第14回五反田アートブックバザール」の目録が届く。真鍋博氏の『ユリイカのカット '57〜'61』 という本があったりして、メルヘンチックな気分で中身を想像している(*´艸`*) 。 》

 本棚から1989年にトムズボックスから出たそれを抜く。真鍋博のセンスが光る。

《 いまは伝説の中にある定価百円のこの雑誌の仕事は、錚錚たる詩人たちの若き情熱にふれた、 20代のわたしの証でもある。 》 真鍋博

 『ユリイカ』1957年1月号が手元にある。64頁の薄い雑誌だが、中身は濃い。執筆者は林光、 谷川俊太郎飯島耕一山口洋子入沢康夫小笠原豊樹三好豊一郎吉本隆明岸田衿子大岡信篠田一士、安東次男、金子光晴ら。篠田一士の新刊時評「詩書」から。

《 この点、《惡の華》の世界は謎のようなヤヌスの相貌をみせている。《惡の華》はまぎれもなく 近代の詩人によって書かれたものであるが、この世界を理解するためにぼくたちは詩人の生活史を 必要としない。古代の詩作品を読むときと殆ど同様の美学を持ち合わせればよい。従ってぼくたちに とっては《惡の華》こそウイギリュウスやダンテと異なって、正統的な古典作品なのだ。 》

《 翁長沖縄知事が14日に中国の李活強首相と会談する。日本国際貿易促進協会の訪中団の一員として というのが建て前。李首相は安倍総理も会えていない中国ナンバー2。尽力したのは河野洋平衆院議長。 中国は沖縄を取り込もうとして動いている。日本の首相は会ってくれないが、中国の首相は会うという。 》  平野浩
 https://twitter.com/h_hirano

《 50年、100年後の地域の未来を見据えながら、首長が住民の支持を支えに不退転の決意で地域の 切実な問題に取り組む。そして日本政府の向こうの世界に向かっても発信して国際世論をも味方につけようとする。 戦争体制作りとアベノミクスの下でのインチキな「地方創生」の対極にある地域民主主義です。 》 金子勝
 https://twitter.com/masaru_kaneko

《 震災から4年経ち、徐々にではあるが、メルトダウン炉の深刻さが明らかになって(されて)きた。 原発事故後「食の安全」や「健康被害の有無」をめぐる意見の対立で、多くの人が対立し、いがみ合い、 憎しみさえもが生まれた。が、炉が置かれた現状の過酷さでは同じ危機を共にしているのではないのか。 これらの対立は、いずれも原発事故の「後」をめぐるものだった。しかし、もし僕らがさらに過酷な 福島原発二次災害の「前」にいるのだとしたら? 実際、廃炉はどんどん希望的な観測となり、無着手の 事故炉の劣化は進む一方だ。この危機の「前」では、誰もいがみ合っている場合ではないはずなのに。 》  椹木野衣
 https://twitter.com/noieu