『 道元──中世芸術の根柢── 』

 『現代日本文学大系 78 中村光夫 臼井吉見 唐木順三 竹内好 集』筑摩書房1979年 6刷の唐木順三道元──中世芸術の根柢──」を読んだ。昭和三十年の発表。間然 するところなき文章だ。漢文古文濫用だろ、とぼやきたくなるが、これぞ修行と観じ、 漢和辞典を右に置き、じっくり注視。しなければ、細かい活字に目をそらすと再会困難。 いやはや多難な読書で御座る。こんな言葉、知らんわ。知っても使うときは今、しかない。 紹介、紹介。そうかい、そうかい。

 行持=仏道の修行を常に怠らずに続けること。
 相嗣=過去から未来に渡って、嗣いでいくこと。

 相を辞書で引くと、相の部首は木ではなくて目だった。目から鱗

《 ただ、深い意味で合理的、道得的、非神秘主義的な道元禅が、何故に面授面受の 伝統こそ正統とする一種秘伝的ともいふべきことを強く主張するかといふ意味を 考へてみたいのである。 》

《 私は面授面受において、逢ふ、とか、みる、といふこと、出会ひといふことの 意味を考へる。 》

《 無師独悟、無自独悟、杜鵑啼山竹裂の出会ひが、実はまた詩の生れ、芸術の起る場 であらう。宗教はこの場を直ちにまた否定して、脱落を脱落し、独悟を脱落する無限の 行にいづるであらう。詩や芸術は、しばらくこの出会ひの場に住し、それを形に あらはさうとする。 》

《 ここでさらに唐突ながら、書きとめておきたいのは、杜鵑啼山竹裂が、後の蓮歌や 俳諧の、つけの要諦であらうといふことである。無師独悟、無自独悟、つらなりもせず、 あつまりもせず、不即不離がつけ方の妙処であらう。 》

 見事な展開だ。論はつづいて、シュール・リアリズム、ヴァン・ゴッホハイデガーリルケロダンそしてプラトンへと言及。

《 道元正治二年(1200)に生れた。いま年譜と年表に頼って当時の状況を誌(しる) しておきたい。道元の生れる十年前に西行が死んでゐる。頼朝は一年前に死んだ。 定家が頼朝挙兵にあたつて紅旗征戎非吾事と書いてから二十年の後である。道元生誕の 翌年、二十九歳の親鸞法然の門に入つた。法然が土佐に、親鸞が越後に流されたとき、 道元は八歳である。五十七歳の長明が鎌倉に下って実朝に会ひ、その翌年『方丈記』を 書いたのだが、そのとき、道元は十二三歳である。(中略)道元二十歳のとき、実朝が 公暁に殺され、二十二歳のとき、後鳥羽院の承久の変が起つた。 》

 豪華な顔ぶれだ。時代の転換期には傑出した人物たちが輩出する。裏に犇めく有象無象の 輩。

《 世間無常、人生無常の体験において剃髪出家して山門をくぐつてみても、そこの寺院が また右に述べたやうに、尋常の世間、名刹と勢力と封建的秩序の世の中であるといふことになる。  》

 八百年前か。現代と変わらぬわ。論の結び。

《 美文、詩歌、文辞は詮なきこととして捨てられたとき、旧文学からやがて新文学へ うつる地盤が準備されたのである。 》

 ネットの見聞。

《 政治、経済、文化、どこでも、既成権威に反逆する人間こそ、次の時代を切り開く。 教育には既成秩序を子供に刷り込むという面があるが、同時にそれに反発する知性、 感性を伸ばすことも必要。理由もなく、国家の権威の象徴に恭順を示すという態度を 学生に植え付けることは大学のすべきことではない。 》 山口二郎

《 安保法制は、正当な手続きなら
  憲法改正→立法化→日米合意 でやるべきものを、
  日米合意→立法化→憲法改正 でやろうとしてるわけで、 これもはや民主主義国家のやることではない。 》 こたつ
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 ネットの拾いもの。

《 もうダメだ。朦朧としながらお客様から「いらっしゃいませ」と本を預かり、 おそらく自分では「袋にはお入れしますか?」と聞いたつもりだったと思うのだが 「お金はお支払いになりますか?」と言ってしまった。帰りたい。 》