『 私 』

 谷川俊太郎詩集『私』思潮社2007年初版を読んだ。いい詩集だ。気に入った詩句を いくつか。

《  私の書く言葉には値段がつくことがあります  》 「自己紹介」

《  言葉には私の過去ばかりがあって
   未来はどこにも見当たらない  》 「ある光景」

《  意味よりも深い至福をもとめて
   私は詩を書き継ぐしかない  》 「書き継ぐ」

《  一語の深度を辞書は計れない
   知性の浅瀬に語彙が散らばっている  》 「ニ×十」

 以上前半から。引用しないが、内蔵にかかわる詩句がなんとも新鮮。そして後半、 「少年」十四篇はなんと瑞々しいことか。等身大の言葉ですっと跳躍している。 さり気なく深いプロの技。脱帽。

 三島由紀夫のエッセイと記憶しているが、高速で回転している独楽は 静止しているように見える、と。北一明の玳皮白流茶碗にそれを感じた。 停止ではなく静止。停止は中途で止まること。静止は運動の反対語、じっとして 動かないこと。北一明の茶碗には運動と静止との絶妙な時間性がある。 一碗に歴史を見る。
 思えば名作絵画には同様の運動と静止との絶妙な時間性を感じる。フェルメールの 『天秤を持つ女』、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの『聖ヨセフの夢』など。 時間性は物語性に通じる。その場に至るまでの杳(はる)かな時間、歴史。 ぎゅっと凝縮された一瞬の絵画の物語性。

 ネット注文した古本、洲之内徹『人魚を見た人』新潮社1994年5刷帯付1500円が届く。 これで洲之内徹「きまぐれ美術館」全六冊が揃った。前半三冊『絵のなかの散歩』 『気まぐれ美術館』『帰りたい風景』は新潮文庫で新刊で購入。最後の『さらば気まぐれ 美術館』はブックオフで100円で購入。そして一昨日『セザンヌの塗り残し』が、きょう これが届く。文庫の三冊は読んでいる。洲之内徹、なぜか気になる文章。ふっと開いた頁。

《 こんなことを言っても笑われるだけだが、この頃、私は東京にいると自分の周囲の すべてが何となく嘘っぽく、真実といえば何でも真実、虚構といえば何もかも虚構のような 気がして落着けず、身の置きどころのないような気持ちになってしまうのだ。何でもいい、 たとえば長い歳月の中で十分に検証された、動かしようのない歴史というようなものに 触れることができたら、そこに自分の躰を預けて安心したい。 》 156頁

 帯には「本文より」の文章。

《 批評や鑑賞のために絵があるのではない。絵があって、言う言葉もなく見入っているときに 絵は絵なのだ。何か気の利いたひと言も言わなければならないものと考えて絵を見る、 そういう現代の習性は不幸だ。 》

 上記、大阪市美術館で観た『天秤を持つ女』、国立西洋美術館で観た『聖ヨセフの夢』。 見入ってしまった。魅せられた。

 ネットの見聞。

《 「想定外」を一蹴 IAEA報告書 「国際慣行に従わず」批判 》 東京新聞
 http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2015052502000146.html

《 読売新聞の記者からは「行政が無害と出してるなら、行政を信じる」と言われました。 わたしの方は、有害と出た検査証を検査機関から受け取っています。この違いは何なのか、 記者として、調査や取材等はしないのか聞きましたが「そんなのしない。」と言われ、 信用してもらえませんでした。 》 黒木睦子
 https://twitter.com/mutsukuroki

 ネットの拾いもの。

《 最近はマスコミの言葉遊びが激しくて、白痴の事をアベシンゾーと呼んだり、 酷いもんだw 》