洲之内徹『セザンヌの塗り残し』新潮社1994年7刷後半も読了。
《 ところで、それはそれとして、この絵の中に時間を感じたそのとき以来、私は、 風景、ないし風景画というものを、時間の範疇で見ようとするようになっている、 》 187頁
こんなくだりに出合うとぎょっとする。
《 芸術は実生活とははっきり切れたところに存在する、ということを、この一枚の 鉛筆画が、彼女に代ってきっぱりと言っているような気がする。この絵に私は慰められ、 励まされる。 》 210頁
《 絵かきばかりが絵かきじゃない、というのが私の平素の持論のようなものだが、 絵かきでない絵かきの有難さは絵を作ろうとしないこと、絵にしようとしないこと、 そういう絵かきの自意識の色眼鏡、商品でいえば中間マージンのようなものが一切なくて、 描こうとする心が対象に直(じか)に結びつくことだろう。 》 227頁
芹沢光治良記念館で先週まで展示されていた子どもたちの仏画がそうだ。かなわない、 と多くの人が言った。
《 死ぬまで、売るための、売れような絵がどうしても描けなかったというのも、 その妥協のなさのさせる業だったろう。 》 285頁
「先生の絵は売れません」と画商が言ったという安藤信哉を思う。しかし、没後三十年を経ても 絵は、特に晩年の絵は一層新鮮さを増す。なんとも不思議だ。
洲之内徹は、小説を書いていたんだと思った。ここには人間関係の濃密な時空が 描かれている。ちょっと描写を変えれば小説になる。それをしなかったのは、小説家に なりきれない自分の不向きを芥川賞落選で実感したのではないか。小説では描けない 人間模様を、エッセイという形式に紛らせて書いた。というのも、これを読みながら 世界文化社から出た二冊の本、『芸術随想 おいてけぼり』2004年と『芸術随想 しゃれのめす』2005年がしきりによぎった。文体がまるで違う。『おいてけぼり』と 『しゃれのめす』は、文字通り芸術随想だ。余計な寄り道はない。一筋の道がすーっと ある。たいして『気まぐれ美術館』には、小説家でありたいという気概が、文章の背後に 脈々と流れている。起承転結の結構が決まっている。
午前、本格的な夏服に着替え、埼玉県上尾市からの視察二十人余りを源兵衛川などへ案内。 冷たい湧き水にびっくり。途中会議室で事業の成功への処方を話す。喜ばれる。解散場所の 三嶋大社境内では盆踊りの舞台。祭りはないはず。テレビだかのドラマ撮影の準備だった。 浴衣の女性たちが木陰で所在なさ気。主役はまだ到着していないのだろう。十二時半帰宅。
ネットの見聞。
《 他者との薄い共感だけを求め合う幼児的世界から自ら能動的に逃れ出て、 もっと孤独を楽しみませんか。その孤独の中でだけ、あなたは、あなただけが抱え持つ、 揺るぎのないあなただけのなにかを発見します。 》 大野純一
https://twitter.com/ohnojunichi
ネットの拾いもの。
《 そろそろ「女性自身」が、ろくでなし子さんの巻頭インタビューしてもいい頃合いです。 》