昨日種村季弘に触れ、種村季弘『遊読記』河出書房新社1992年初版を開いた。主に朝日新聞に 書いた書評集。二ページに一冊の評。たった二ページにどれだけの仕込みがなされているのだろう。 文章という氷山の海面下にはその十倍の質量が、海上部を下支えしている。書評とはいうが、 良し悪しを評するのではない。作品を消化し、別のものへと昇華してしまう。「あとがき」から。
《 芸当なら芸当らしく、当人も遊び、人様にも遊んでもらうしかない。いきおい、正面切った 書評というわけにはいかない。 》
客席正面ではなく、舞台袖から出入りするような、アクロバティックなひねり技。これはすごい。 アルコール度四十度のコアントローを一気に呑んだような、二ページで酩酊気分。 そういえば壜はとっくに空。買い忘れていた。なら格好がつくが、金欠。 キャッシュカードなる電磁物は持ってない。明日銀行へ行かねば。
岡谷公ニ『南海漂白 土方久功伝』河出書房新社への評「無人称の声」。
《 人びとが右と左、東と西しか見ていなかったときに、彼は南北を見ていた。横軸が消えても、 彼だけが縦軸みたいに垂直に無傷にのこった。 》 30頁
このくだりに現代画廊主、洲之内徹の姿が透視された。青春を右左に翻弄された彼は、画廊で 南北あるいは垂直を目指した。垂直……物故作家の発掘……そんな気がする。
《 十九世紀の大作家たちが意図したように、真の主人公はパリ、というわけだろう。(中略) 読み終わって思うのは、わが国にフランス文学者が何千人といて、どうしてたった一人しか こういう本を思いつかなかったかという素朴な疑問である。 》 37頁
洲之内徹は、知られざる画家の優れた絵の紹介に力を注いだ。
中西夏之『大括弧 緩やかにみつめるためにいつまでも佇む、装置』筑摩書房への評 「立ち上がる平面」。
《 中国の天目茶碗が「緩やかにみつめるためにいつまでも佇む、装置」になって、 伝統的感性にねそべっていた光琳屏風が正面性となって立ち上がってきた。 》 93頁
寝る前の静かなひととき、北一明の茶碗を手にし、釉薬の創る精妙な景色を緩やかにみつめる。 気持が静まる。
中西夏之の大作『紫』などを名古屋市立美術館で見る機会があった。抽象画面が、緩やかな 筆触と色彩の効果によって空間の奥行が、弾性を帯びている。画面が搖れる。これはいい。 ライリー・ライリーの錯視を利用した絵画とは違って、かろやかな自由の雰囲気があった。
http://www.gallerysugie.com/mtdocs/artlog/archives/000151.html
ヘルムート・フリッツ『エロティックな反乱』筑摩書房への評「あるボヘミアンの貴族」。 その結び。
《 最後までサーカスの女芸人になることを本気で考えながら四十七歳で死んだ。まだ美しかった。 》 109頁
今でいう美魔女だな。
マレーネ・ディートリッヒ『ディートリッヒのABC』フィルムアート社への評「人生の入門書」。
《 このとき以来、彼女は自分が感じるのではなく、私たちを、観客を感じさせる。エンターテイナー 誕生。(中略)自らを鉄の意志で律しつつ、私たちを感じさせる。 》 111頁
観客を感じさせる絵、美術作品を、私は求める。後半は明日に。
お昼前は源兵衛川の月例清掃。滋賀県から引っ越してきて初めて参加した若い男性に、 終了後少し案内。喜ばれる。
午後、隣町のビュッフェ美術館へ、美術評論家椹木野衣と画家杉戸洋の対談を聴きに行く。終了後、 椹木氏に挨拶。会場で遭遇した平野雅彦静岡大学客員教授、十時孝好名古屋芸術大学名誉教授と女性二人で併設のカフェの野外の椅子で歓談。夕方帰宅。
ネットの拾いもの。
《 <21世紀最大最強の瓢箪から駒> BABYMETAL 》