『 レトリック感覚 』つづき

 佐藤信夫『レトリック感覚』講談社1978年4刷、後半「誇張法」「列叙法」「緩叙法」を読み、 読了。レトリックまみれ、レトレトレト目が回る、レトロなオツムはもうレロレロダウン。

《 が、もっと本質的な理由は、言語の本性が虚偽をふくんでいることであり、それに加えて、 言語とは《元来うそをつくことのできるもの》だ、ということである。それは言語あるいは 記号の重要な定義のひとつでもある。自然の事実はうそをつかない、のではなく、うそが つけないのだ。 》 191頁

 「インディアン、うそつかない」って昔言ってたなあ。

《 そもそも言語は事実を表現するものではなく、事実に対する私たちの見かたを表現するもの であろう。ものごととは、私たちの認識のしかたにほかならない。 》 199頁

《 人は、記号の外観と内容のつりあいを忘れることによって文明人となったのだ。 》  207頁

《 しかし、ときどき、文明人ではなりたくないとふと思うこともないわけではない。 》  207頁

《 列叙法は、文章の外形を、その意味内容およびそれによって造形される現実に似せて しまおうという努力の一種である。 》 207頁

 当初の文字変換では「烈女」「意味無いよう」。意味ないじゃん。

《 現実を正面からばかり見ていると、私たちが現実に吸い込まれそうになる。そういうとき、 ものはためしに、ちょっとわきへどいて、横から眺めると、一種の認識上のゆとりが生まれる。 そのゆとりのせいで、読者はあらためてその現実を、それとは正反対のものと見くらべることが できるようになる。 》 234-235頁

 真横もあるし斜め横もある。

《 ことばの意味は固形でなければいけないなどという理不尽なはなしはない。 》 243頁

《 ことばの遊びは、ときに、危険である。ことばが、発言者の手をはなれて、勝手に 動きまわることになる。笑えなくなる。 》 252頁

《 私たちにとって、色の彩度と明度の世界あるいは葬儀の光景のなかでは、「黒」の対義語は 「白」にちがいない。と同時に、白の清らかさから楽天家が思いえがく祝祭の風景のなかでは、 たしかに「白」の対義語は「赤」である。とすれば、「善」の対義語がつねに「悪」でなければ ならない理由はどこにあるのか、「善」の対義語が「醜」であってはいけないのか……。 》 253頁

《 レトリックの問題は、いつも、たちまちレトリックを越えてしまう。言語をめぐる すべての悩みがたちまち言語を越えてしまうことを思い出そう。 》 254頁

 新鮮な視点を与えられた。それを活かせるかどうか。
 読了して二つの短歌が浮かんだ。理由は不明。

   海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり
                                   寺山修司

   ロミオ洋品店春服の青年像下半身無し・・・さらば青春
                              塚本邦雄

 ネットの見聞。

《 「米が呼び出し」虚偽か 09年、普天間移設で外務省 》 琉球新報
 http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-245319-storytopic-3.html

 ネットの拾いもの。

《 「おい。仏壇返し届いてるぞ」。香典返し。 》