『日本の美 その夢と祈り 』

 宗左近『日本の美 その夢と祈り 』日本経済新聞社2004年初版を読んだ。

《 日本の戦後半世紀の芸術は、いったい何を願っての営為であったのか。パリ芸術界での、 いや、ニューヨーク画壇での活躍? つまりは、日本文化の活動の目標に、ひたすら国際化を 願望したにすぎなかったのではなかったろうか。 》 「まえがき」

《 日本の芸術は、国際化ではなくて、宇宙化を願望しなければならない。 》 「まえがき」

《 冬の夕焼け、あれはまことに凄まじい。多色の輝きの天空の大氷原である。おのれを 八つ裂きにして宇宙が凍りついたのか、と思ってしまう。 》 25頁

 昨日の『レトリック感覚』の影響で、直喩だろう、誇張法だろう、と考えてしまう。 生半可な知識による判断はいかんいかん。

《 一目惚れを起こさせる事物を美しい、と言うのである。そして、二人以上にその一目惚れを 共有させる事物を芸術品、と言うのである。/ そのとき、その事物の出自や由緒は、関係ない だけではなく、逆に有害である。その事物の魅力を受けとるためには。 》 78頁

 私と同じような考えのひとがいた。ピカソの『アヴィニョンの娘たち』について。

《 ほう、やってるねえ、と思った。それだけ。思いがゆさぶられなかった。(中略)ピカソは、 造形の奥のもの(大自然)を見ず、造形の結果に目を奪われただけではなかったろうか。 》  91頁

 私と同じような感想をもつ人がいた。仁清の焼きものについて。

《 これは、具体性を失わない抽象、感覚と理知による具体抽象にほかならない。そこに、 仁清の芸術の本質がある。 》 180頁

《 だが、よく眺めていると、そうではなくて色という名の楽器によるオーケストラ。そして、 心憎いまでに色と色との緊迫と緩和の色価のドラマ。強くて快い諧和の波動が伝わってくる。 やはり見事な具体抽象である。 》 180-181頁

 仁清を安藤信哉に替えて使いたくなる。
 http://web.thn.jp/kbi/ando.htm

《 闇を対置しない芸術は、ハリボテにすぎない。 》 182頁

 味戸ケイコさんのいくつかの絵は闇を対置している。
 http://web.thn.jp/kbi/ajie.htm

《 作品の奥の「虚」に見つめられていない芸術家は、芸術家ではない。 》 203頁

 北一明の茶碗やデスマスクを連想。
 http://web.thn.jp/kbi/ksina.htm

《 一字一字の構築性よりもむしろ全体の流動性のほうが重んじられている。 》 217頁

 北一明の書を連想。

《 実例をあげる。骨董と呼ばれる徳利、盃、そして壺など。/ それらは、存在価値と使用価値の 綜合品である。つまり、双方の価値が、干渉しあい、結合しあい、変容させあう。そのため、 その作品のなかから、単純な存在価値と使用価値の合体からは生まれない超越価値が生まれ出る。/  その超越価値の別名が、骨董美。そして、わたしはそれを宇宙美と言う。 》 「あとがき」

 『北一明芸術の世界』主婦と生活社1987年、52頁の宗左近の推薦文から。

《 絵画にして彫刻にして陶磁器にして、しかもそのいずれでもないもの。やむをえず、韻石、 これより天外に飛び去らんとする不可思議な韻石、とでも呼ぶほかはない。/  その韻石のはらむ音楽、遠く北斗七星と交響する音楽、そこに耳を澄ましていただきたいと、 わたしはつつしんで呟くことにする。 》

 ネットの拾いもの。

《 この季節の洗濯は賭けだな。 》