『 レトリック認識 』

《 逆説めいた言いかたをする以外に、言葉では、その真実に迫ることのできない存在が 生なのである。 》 138頁

 昨日の宗左近『日本の美 その夢と祈り 』の上記に出合い、佐藤信夫『レトリック認識』 講談社1981年初版、前半「黙説あるいは中断」「ためらい」「転喩あるいは側写」を再読。 一昨日の『レトリック感覚』につづいて出版された本。副題「ことばは新しい世界をつくる」 に表される新鮮な視点、前著を上回る闊達な論調に惹き込まれる。

《 思考はけっきょく論理によって管理しつくされるものではなく、言語は文法によって きわめられるものではなかった。すなわち、私たちが心に思うこととことばづかいとが出会ところに 成立する認識とその実現は、けっして論理と文法によってじゅうぶんに制御されうるものでは なかった。そして、論理と文法の手にあまる認識の動きとその表現を取りあつかうべきものは、 レトリックだったのである。 》 6頁

《 言語表現に《説得力)と《魅力》を与える技術という、レトリック自身が看板にかかげていた、 そして世間でもそういうものと見なしていた役わりとはかなりおもむきのちがう、別の意義、それは 《発見的認識の造形》とでも呼ぶのがふさわしい機能である。 》 7頁

 冒頭からドッカンと来ましたねえ。これ、大事。

《 本書ではむしろ、特異な動きをしめす認識の型そのものにかかわる《あや》、いわば 認識の動態をとらえようとする表現の形式を、重点的に吟味するつもりである。 》 10頁

 よくわからんけど、読み進めた。あら、面白い。

《 言語表現のための百項目を越える技法の型は、じつは、別の視角から眺めなおしてみれば、 言語的認識についての百項目を越える問題の型だった。言語にとって、便利さよりはむしろ 悩みの形式だったのである……。が、問題を感じようとしない精神には、問題は姿をあらわさない。 ただ潜行するだけである。 》 32頁

 日本の現況を述べているような。

《 これはほんの些細なひとつの例にすぎないが、伝統的レトリックの教養を意図的に否定した 十九世紀後半からのヨーロッパ文化と、そのあとになってから、そんな伝統などもともとなかった かのようなそぶりのヨーロッパ文化に出会った私たちの受けとめかたとのあいだには、たしかに 微妙なずれがあった。 》 50頁

 明治期の文明開化、近代化……。

《 技法と呼ばれていた多様な《ことばのあや》がじつは言語的認識のさまざまな原理的特性の 名称でもあったということを、私たちに気づかせなかったものは、その近代的妄想である。 》 57頁

《 正しく書くだけでよい、たくみに書こうと思うな……という口あたりのいいけっこうな養生訓は せいぜい、くしゃみ、せき、頭痛ぐらいにしか有効ではない。 》 68-69頁

 借用したくなる言い回しが随所に。

《 ものごとは、むやみに明細に分けたりしないほうがわかりやすいばあいが多い。 》 95頁

 曇天なので朝、そばの源兵衛川、三石神社周辺の伸び出したヒメツルソバを抜く。 土が水を含んでいるので軽く抜ける。三十分、土のう袋一杯で終了。こんなに汗をかくとは。 シャワーを浴びる。ここに来て川の水量がぐんぐん増している。うかつに川へ入れない。

 映画観賞を予定していた金曜午後に用事が入ってしまい、おあずけ。そう『マッド・マックス』。 「ちなみに、2D版で観てきたのだけれど、これが正解でしょう。」と某ブログ。年配者には、ね。 しかし、いつ行けるだろう。来週の金曜も予定がある。女友だちからは、どこがいいの? という顔をされた。男の(子の)観る映画だい。

 ネットの見聞。

《 マッドマックス1回目の人が、情報量の多さと展開の強烈さで思考停止し、 太鼓のリズムとギターの音だけが耳に残った結果「内容覚えてないけどギターの奴良かった」 しか感想が出てこない現象を「ドゥーフ現象」と名付ける。 》

《 土建屋政治屋と資産家のためのオリンピックであって、震災も原発事故も知ったことではない、 ということがはっきりわかりますわね。 》

《 役人の皮算用は100パーセント外れる。なぜなら、皮算用が現実となる時、 彼らは同じ椅子に座っていることはないからである。責任のない数字など、 適当にいじくればいいからである。 》

 ネットの拾いもの。

《 てんとう虫がすごい苦手だと言ったら、「えーーどうして?!かわいいじゃん!!!」 とすごく驚かれました。わたしゃ生理的に草間彌生デザインのものはなんでも苦手なんだよ! 》

《 蔵書を減らそうと覚悟を決めて、ようやくまず1万冊処分したのに、1冊の本を欲しいがために 他人の蔵書一括3万冊を買ってしまった。金輪際人のことをバカとは言うまい。一番バカなのは自分だ。  》