『 レトリック認識 』つづき

 佐藤信夫『レトリック認識』講談社1981年初版を読了。後半は「対比」「対義結合と逆説」 「諷諭」「反語」「暗示引用」。前半同様、記憶に無い用語たちだ。昔読んで、読んだという 情けない記憶しかない。捲土重来なったか。半分な。奥が深いというか、うん、奥が深い。 迷路のように面白い。

《 言語表現がどうしても私たちの人生そのものと同様に途中の経過や関心抜きでは意味を 形成しえないのに対して、論理は無時間的な、すべてを同時に見とおす(いわば《認識論的な神》 の視点からの)ものの見かたをめざしているようである。 》 138頁

《 論理の世界で「XはXである」という同一律がすっきりと成立するのは、経過をゼロと見る、 無時間・無空間的な永遠の視点を仮定するからである。あるいはもっと正確に言えば、視点抜きの、 遠近法のない世界の仮定である。(中略)それはみごとと言えばみごとな純粋化であった。 》  141頁

 だから論理学にはなじめないのか。絵画における還元というヘンなことを連想。

《 発見的認識をかろうじて造形する、という真剣な(深刻な、ではない)機能ないし 仕組みが、遊びの仕組みにもなる。それは、考えてみれば奇妙でも不思議でもない。 標準的な意味の体系をいくらかひずませるというレトリック現象は共通なのであった、 《苦肉の策としてやむをえず》か、それとも《楽しみのため》か、という点を別とすれば。 真剣であることと遊ぶこととは、案外似ているのだろうか。 》 「諷諭」184頁

「反語」の章より。

《 いつも分類に余年のなかった伝統レトリックは、特に風刺性の方向に応じて狭義の《反語》に、 いくつもの下位分類の名称を案出した。(中略)おもなものをただ記録風にならべてみる。(中略)
   皮肉:辛辣で人を傷つけるような反語。
  愚弄的皮肉:皮肉のうちでも、とりわけ相手を周囲の笑いものにする表現。
  嘲笑的あてこすり:微妙な、露骨ではないが冷笑のための皮肉。
  反語的賛辞:ほめたたえているようにみせかけ、じつはけなしている表現。
  反語的緩和:おだやかに見せかけ、じつは刺をかくしている表現。
  反語的期待:すなおな希望をのべながら、じつはそのむなしさを意味する表現。
  反語的否認:ことさらに否定してみせることによって肯定を暗示する表現。
  偽悪的賛辞:非難のことばでじつは称賛している表現。
  あげ足とり:相手のことばじりをとらえてその意味を反語化してしまう機知の応酬。 》 202-203頁

《 前にも言及したように、反語とはことさら露顕するようにつくうそである。 》 204頁

 あっちこっち面白い発見と気づきで、引っ張りまわされてしまった。へとへとに愉快。

 ネットの見聞。

《 だいたい核燃料行方不明のメルトダウン原発を三基も抱えて、どうして五輪になど手を上げた? 国は復興五輪を掲げるけど、それで原子炉が元に戻るわけでもなし。人類未踏の廃炉に桁外れの 予算が消えるのはこれからなのに。しかもあの使い道知れずの新国立に年間30億の維持費。 どこが復興五輪なんだ。 》 椹木野衣
 https://twitter.com/noieu

 ネットの拾いもの。

《 某国営放送の株価の解説が分かりやすい。上がると何とかノミクスのせい。 下がるとギリシャと中国のせい。 》

《 ちょっとウトウトしたら、月末に家賃入れた封筒無くす夢見た。 寝てる時くらい幸せがほしい。 》

《 今日はなんだか、7月とは思えないくらい肌寒い夜だ。それでも財布は、なお寒い。 》