「何か/どんなものか」

 本棚の小林恭二・選『俳句とは何か』福武文庫1989年初版と高浜虚子『俳句とはどんなものか』 角川文庫2009年初版が目についた。どちらも既読。「何か」対「どんなものか」。 この問いかけの視点の違いに興味を覚え、ちょこっと再読。前者に収録されている高浜虚子 『虚子俳話(抄)』から。

《 私は無季の句を必ずしも排斥するものではない。但しいゝ句は出来憎い。又無季の句は俳句ではない。 無季の句は唯の十七文字詩である。 》

 私は十七文字でできたものが詩なのか俳句なのか、どっちでもいい、優れていればいゝ。

《 問題は、真に精神の酷烈さを求めようとすることにあるのか、酷烈という言葉を酷烈らしく 振りまわすことによって、酷烈だと思い込んでしまうのか、その辺なかなか簡単に信じるわけには ゆかぬ。 》 富沢赤黄男『雄鶏日記(抄)』

 付箋の貼ってある箇所を引用。酷烈らしい絵もごろごろある。苦悩の絵で有名な物故作家の絵を 古臭いと感じる人が現れてきた。回顧展を観た知人はそんな感想をメールでよこす。昨日話題の 味戸ケイコさんの絵をどこかコワイという人が、K美術館では何人もいた。何気ない少女・女性像だが、 その絵は、見る人の心の奥深くにしまい、忘却していた記憶の何かを気づかせる。
 http://web.thn.jp/kbi/ajie.htm
 仮題『1969』。この全く飾ざり気のない白黒銅版画は、全然酷烈な絵ではないが、足元がぐらっとゆらぐような衝撃を見る人に惹き起こす。味戸さんの絵の原点だろう。

 以前から気になっていたことに、結城昌治が、ロス・マクドナルドのミステリ『ウィチャリー家の女』 にはトリックに一つミスがあり、見逃しえないアンフェアもある、と書いていたということがある。何だろう、とずっと気になっていたが、やっとわかった。それは知っているはずの相手が面変わりしていて分からなかったという点。この指摘は一昨日読了したドナルド・ジェイムズ『モスクワ、2015年』にも通じる。付け髭をしたりしても、ご都合主義だなあ、と読みながら思った。

 陽射しが傾いた午後、韓国からの高校生大学生ら二十人あまりを、グラウンドワーク三島の理事長らと 源兵衛川へ案内。女性が多いので華やか。三島駅近くの白滝公園で湧水の池に入ってはしゃぐはしゃぐ。 源兵衛川へ入ってわいわい。付き添いの韓国人は、女性のほうが活発だと言う。日本と同じね〜。

 ネットの見聞。
《 3月11日 ディズニー公式「春よ来い♪」

  8月6日 ディズニー公式「暑中お見舞い申し上げます。
  8月9日 ディズニー公式「なんでもない日おめでとう」
  他は宣伝ツイートしかしてないあたり確信犯ほぼ確。 》

 ネットの拾いもの。
《 「就職できなくなるぞwww」「落選するぞ」「……」 》