『はてしもなくて』

 『日本美術全集 第19巻 拡張する戦後美術』、味戸ケイコさんの絵への椹木野衣の解説。

《 そしてこの漆黒の闇。その底はいったいどこへ続いているのだろう。 》

 この一文がずっと引っかかっている。『松岡正剛の千夜千冊』の「マルティン・ハイデガー存在と時間』」を読んで、はたと気づいた。まずはその一節。
 http://1000ya.isis.ne.jp/0916.html

《 ともかくも、このようにすべてを「世界内存在」としてみれば、ここに主体と客体というような 二分法をもちこむのは、まったくムダになってくる。それならまだしも世界と人間の関係を、 スケーネー(場面)とドラーマ(活動)とペルソナ(役柄)に分けて見たほうがいい。誰だって、 このいずれかの渦中にいるはずだ。 》

《 ということは、存在には、究極の依り所なんてものはないのだということでもある。 存在の起源や存在の理由をもちだそうにも、もちだせない。それが存在なのだ。 》

《 存在には底がない? そうなのである。存在は底なしなのだ。いいかえれば、存在が底なのである。 これは『存在と時間』のひとつの結論ともいうべき提唱である。ハイデガーはこれをもって 「存在の途方もない不可解」とも言っている。 》

 引用だけでは何が何やらわからんと思うけど(私自身まるでわからん)、直感的にこれだ、と 思った。  味戸ケイコさんの絵『はてしもなくて』に寄せた拙文(静岡新聞に掲載)。

《  この絵は佐々木丸美の小説『罪・万華鏡』の表紙に使われました。
  この絵には三つの異なる時間・空間が描かれています。一つ目は
  少女の時空です。二つ目は少女の後景の銀河星雲と、そこからはるばる
  飛来したように描かれている紙風船の物体の時空です。三つ目は
  少女の足元の闇から背景の宇宙へと広がっている無限の時空です。
  この三つの異なった時空がダイナミックに組み合わされて、
  一つの画面が構成されていますが、三者はバラバラの存在として
  描かれている訳ではありません。この三つの時空は、
  少女の心の世界の表象として、深く結び付けられています。
  絵の中心に位置するうつむく少女の隠れた瞳は、彼女の心の世界へ
  向けられています。その眼差しは、足元の深い闇に吸い込まれ、
  背景の宇宙を漂流し、銀河を通り抜け、紙風船のように少女の上を
  通り過ぎ、そして遠ざかって行きます。
  何ものにも届かない眼差しの航跡が、見る人の心に深い思いを刻みます。 》
 http://web.thn.jp/kbi/ajie.htm

 直感でなにやら関連するものを感じる。情けないことに直感するだけ。まあ、直感を解き明かす能力は、 私には当然ありはしない。けれども、そんな他愛無い直感にワクワクする私がいる。

 朝、雨。源兵衛川の月例清掃は中止。

 ネットの見聞。

《 「それまで常識だった価値観や磐石に見えた体制がほとんど一夜にして瓦解する」ということがあります。 そして、連鎖反応で「あそこでも崩れたのか・・・」と知ると「じゃあ、うちのこれも崩れるのかな」と思えてしまう。 絶対不可能だと思っていたことが「なんだか起りそうに思えてくる」。 》 内田樹
 https://twitter.com/levinassien

 椹木野衣・編『日本美術全集 第19巻 戦後〜1995 拡張する戦後美術』小学館は、美術界のそれを予感させる。

《 講師業を総辞職したので人になにかを教える義務が私にはないのですが、一つだけ言えることは、 今頃になって「グローバル!」と目くじらを立てて突進してゆく企業や人間は、20年後には必ず負けている ということです。目指すなら徹底的したローカリズム。此処にしか存在し得ないものを目指すのです。  》 大野純一
 https://twitter.com/ohnojunichi

 ネットの拾いもの。

《 意味と音がぴったし合っている言葉って、あるよね。例えば「泥濘(でいねい)」。
  「土砂」と似ている音感の「吐瀉(としゃ)」。
  「土砂降り」に対して、「吐瀉降り」もあったら、凄くイヤだと思う。 》