「関係AB」

 昨日リンクした松岡正剛マルティン・ハイデガー存在と時間』」の一節。

《 短文ではあるが、『遊学』(中公文庫)に「無の存在学」を通したハイデガーの一端、 すなわち関心(ソルゲ)の連続体としての存在にかかわる「差異の哲学」がどういうものであるかを、 スケッチしておいたので、それらを読まれたい。
 そこではぼくは、関係ABが存在の本質だと書いた。文末にリルケの次の言葉を引いておいたのも、 参考にしてほしい。「われわれは、彼女よりも彼女の持ち物のほうに存在の本意を知ることがある」、 というやつだ。 》

 松岡正剛『遊学 II 』中公文庫2003年初版の「世界の-近さ-の-内に-入る ─マルティン・ハイデッガー」 を読んだ。五ページ足らずの短文だが、内容は深い。

《 ハイデッガーが存在的と存在学的を分けたのは、存在者の規定を存在的(オンティシュ)と いうのにたいし、存在者の存在の規定を存在学的(オントロギッシュ)というためだった。これによって 存在学的なるものとは、そこここの存在者一般をいったん通過してなおこの存在の意味を問い直す立場を さすようになったのであるが、私はこれをすこし拡張して、たとえばわかりやすい例でいえば、 いま窓の外に見えている月そのものは存在的であり、その月に月面の経緯図がかさなって見えているときの 消息は存在学的だというふうにつかってきた。 》 231-232頁

 ここまではなんとなくわかるが、その先が松岡正剛の持ち味。

《 私が「存在」そのものへの旅とはべつに、「関係」をたずねるべきだとおもうのは、「イメージの起源」 を問題にしようとすると、「関係していること」が「存在になる」という順でイメージがつくられてきたことに 気がついたからだった。先に存在がバラバラにあって関係づけられたのではなくて、先に関係づけられた ものたちが、あとで存在として分離させられていたわけなのである。 》 234頁

《 ここにAとBがあるとき、われわれはこのAとB以外にAとBの「関係AB」を想定できる。 》  234頁

《 ハイデッガーは、それは「近さの-内へと-入って-行くこと」であるというふうに書いた。 この叙述の工夫には、ハイデッガーが「関係」そのものの只中への接近をそこなうまいとする気持が よくあらわれている。そしてその気持こそ、存在学的なるものを「関係」の裡に発見する 重要な方法を暗示していた。 》 235頁

 上の引用から藤原編集室の10日、11日のツイッターを想起。
 https://twitter.com/fujiwara_ed

《 《 高山宏セレクション/異貌の人文学》第2シリーズ(白水社)のご紹介(4)は、 20世紀後半におけるアレゴリー復権の口火を切った、すでに古典的な名著。
 アンガス・フレッチャー『アレゴリー ある象徴的モードの理論』(伊藤誓訳) アレゴリー(寓意)のもつ宇宙的スケールを絢爛と語り、「思考の外交的仲介者」として再評価、 18世紀以来のアレゴリー蔑視、シンボル優位の風潮に異議をとなえ、 現代におけるアレゴリー復権を謳った名著。
 西洋思想の最初期から現代に至るまでアレゴリーは重要な役割を果たしてきた。だが、 18世紀から20世紀半ばまで、アレゴリーはシンボルに比べて劣る表現形式とするアレゴリー軽視の 傾向が続いていた。(例えばアレゴリカルなホーソーンよりメルヴィル『白鯨』のシンボリズムの方が上、 というような)
 シンボルは「肉体」「形式と内容の受胎」「全体的生」「存在」、アレゴリーは「符合」「コンヴェンション」 「恣意と計算」「関係」と断じたのは、20世紀初頭の文芸哲学者グンドルフ。ニュークリティシズムにとっても、 アレゴリーは「抽象的観念を絵画的言語に移し変えたもの」でしかなかった。
 しかし、フレッチャーは言う。アレゴリーはテクストに体系的に注釈を加えていくモードであり、その源には、 言葉には魔術的な力がある、という信仰がある。それが今、字義通りのテクスト読みという「近代」 に扼殺されかけている、と。
 「アレゴリーの意義は、字義通りの意味と外部にあるレファランス系のあいだを行ったり来たりする運動の自由、 百科全書的な精神にある。・・・フレッチャーがアレゴリーのモードに読み取った「思考の外交的仲介者」 の機能の有効性は、共生社会を目指す現代にも通じうるものではないだろうか」(訳者)
 「(1960年代の)新しい展開を十分に見ながら、アレゴリーをシンボリズムとの不毛な比較の軛から解き放ったのが、 1964年公刊のアンガス・フレッチャー『アレゴリー』であった」(高山宏) 》

 松岡正剛とアンガス・フレッチャーの視点は、どこかでつながっていると感じる。感じるだけで論証できないのが、 一般人の悲しさ。いや、勘違いしているかもしれない。なにせ、『存在と時間』も『アレゴリー』も未読なのだから。 いやはや、味戸ケイコさんの絵『はてしもなくて』からここまで来てしまった。

《 総てのクエスチョンマークに呪いあれ!(大坪砂男『美しき証拠』より) 》

 某ツイッターに誘われて大坪砂男『美しき証拠』(『大坪砂男全集2 天狗』出帆社1976年初版、収録)を読んだ。 いい短篇だ。昭和25年なればこそ書かれた作品。トリックよりも関係から殺人犯を推理してゆく。関係だ。上で引用した 松岡正剛の発言が聞こえてくる。

《 先に存在がバラバラにあって関係づけられたのではなくて、先に関係づけられたものたちが、あとで存在として 分離させられていたわけなのである。 》

 ネットの見聞。

《 書籍流(しょせきりゅう) 》
 http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BD%F1%C0%D2%CE%AE

《 国勢調査、さっそく偽サイト 画像に「偽物だよ!」 注意喚起?謎の目的 総務省が削除要請 》
 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150914-00000003-withnews-soci