ロラン・バルト『表徴の帝国』ちくま学芸文庫2001年8刷、本文を読んだ。西洋の規準から見た日本の 有様……食、住、娯楽、しぐさ、言葉、住所、全学連など。原著は1970年の刊行。じつに面白い。 かつ難解。
《 わたしはまた、実在する国のどんな些細な現実にしろ再現したり分析したりしようとはせず、 (中略)この特徴線で一つの世界をはっきりと形成することができる。日本、とわたしが勝手に 名づけるのは、そういう世界である。 》11頁「かなた」
箸について。
《 箸をあやつる動作のなかには、木や漆という箸の材質の柔らかさも手伝って、人が赤ん坊の 身体を動かすときのような、配慮のゆきわたった抑制、母性的ななにものか、圧迫ではなくて、 力(動作を起すものという意味での力)、これが存在する。そこにこそ、まったく食べものに ふさわしい行動がある。 》 33頁
《 箸という存在があるために、食べものは人々が暴行を加える餌食(たとえば、人々の むさぼりつく肉)ではなくなって、みごとな調和をもって変換された物質となる。 》 34頁
天麩羅について。
《 ところで、じつはそのなにものか、それの本当の名前は、完璧な周縁をもたないすきま、 さらにいえば、空虚な表徴、なのである。 》 44頁
《 俳句には、音楽のもつ純粋、円球、さらには空虚、がある。 》 119頁
《 俳句の総体は、宝石の網であって、その網目の宝石の一つ一つはおのれ以外のいっさいの 宝石の輝きを反射し、以下これに準じて無限にいたるが、しかし、その中心、発光の最初の核は 決して把握できない。 》 124頁
《 (俳句は主語を顧慮しない) 》 135頁
これら俳句への言及に、北一明の茶碗、耀変茶碗を連想。九月二十六日のブログに書いた 「明・暗 宙・空 虚・無」にどこかつながっているような。
《 絵画および(書の)表現体(エクリチュール)は、筆という独自の同じ道具をもつものだが、 その装飾的な様式、暢(の)びやかで愛撫するようなその筆致、壮大なその空間、そのなかに 表現体(エクリチュール)をひきいれるのは、(一つの機能がやがて市民化してゆくことこそが その機能の美しさの洗練にほかならないとする西洋においては、それはたぶん絵画であったのだが)、 日本においては絵画ではなくて、逆に(書の)表現体(エクリチュール)そのものが、絵を描く しぐさを支配するのである。その結果、絵を描くとは、書くことにほかならなくなってしまう。 》 141頁
内野まゆみさんの絵を連想。
昼前、源兵衛川最上流部でヒメツルソバを駆除。土のう袋一袋。
午後、ブックオフ長泉店で四冊。『エリュアール詩集』小沢書店1994年初版、奥泉光『黄色い水着の謎』 文春文庫2015年初版、鯨統一郎『パラドックス学園』光文社文庫2009年初版、ジャレド・ダイアモンド 『銃・病原菌・鉄 上』草思社文庫2012年5刷帯付、計432円。
ネットの拾いもの。
《 βマックステープ生産終了の報にふれ思う
βマックス対VHS戦争
VHD対レーザーディスク戦争
HD−DVD対ブルーレイ戦争
三連敗は東芝だけ。 》
《 「私のマイナンバー番号」 》