『表徴の帝国』つづき

 ロラン・バルト『表徴の帝国』ちくま学芸文庫2001年8刷、訳注、解説を読んだ。五十頁のこれを 読まないと本文の理解は無理、私には。訳者宗左近の丁寧な解説によってその姿がほの見えてきた。

《 それに一九ニ○年代から四まる年代にかけては、象徴という言葉そのものが君臨していた時代であった。 象徴は神話の幻惑、つまり《豊饒》の幻惑をほしいままにしていた。象徴は豊饒であるがゆえに、 単純な表徴に還元するわけにはいかない、というのである(だが、今日では、表徴は必ずしも 単純なものではないと見なされている)。 》213頁

 この指摘で目から鱗が落ちたよう。学生時代学んだ時には象徴が表徴よりも優位、上位にあった。

《 意味論の目的とするものは、意味の内容ではんばい。歴史によって左右される意味とは、 いったいどういう行為によって生みだされるのか、その行為の解明が目的なのである。表徴化する (意味化作用をさし出す)人間、それが新しい人間、すなわち構造主義的人間なのである。 》 223頁

《 そこからロラン・バルトの次の規定がうまれる。「文学とは、その問いかけが答えとなる作品活動 のことだ」。 》 226-227頁

 深い解説だ。が、時代性を感じる。いずれにせよ再読を要する本だ。

 最近近くの市町ではアート関連事業が催されている。静岡市清水区蒲原の「駿河の国ビエンナーレ」、 富士宮市の「まちなかアート」、富士市の「紙のアートフェスティバル2015」、沼津市の 「アート名店街」、南隣の函南町の「「Cliff Edge Project -半島の傷跡」、伊豆の国市の「伊豆の国 アートビレッジ」など。開催の目的はどれもアートによる地域の活性化。アートを手段に地域を活性化させる、 という目論見は、まず外れると、私は考えている。外国、せめては日本中からその作品を見に来るような 作品展示が必要だと思う。今、ここでしか見られない作品。それがないと他所からは見に来ないだろう。 いや、それよりも先ず地元の人たちが面白がって参画することが前提だろう。朝グラウンドワーク三島の 渡辺専務理事が、公益社団法人 農業農村工学による農地保全研究部会第36回研究集会参加者を源兵衛川へ 案内していた。源兵衛川、これは環境アートの一例だと私は思う。息の長いアートだ。

 昼前、源兵衛川、水の苑緑地周辺でヒメツルソバの駆除を一時間半ほど。借りた脚立で高い所も楽々。土のう袋一袋に詰め込んで終了。後は来週。

 ネットの見聞。

《 夢の収蔵品があります この数年考えていて 今 最も収蔵したいものの1つは この数年考えていて、 今 最も収蔵したいものの1つは ボーイング747だ。 》 MoMAの建築・デザイン部門シニアキュレーター、 パオラ・アントネッリ

《 In Japan's Okinawa, impasse over US air base fuels deepening tensions  》  The Christian Science Moniter
 http://www.csmonitor.com/World/Asia-Pacific/2015/1106/In-Japan-s-Okinawa-impasse-over-US-air-base-fuels-deepening-tensions

《 取材などで「神道とは無関係に見える宗教団体が、あれほど多く『日本会議』 に参加しているのはなぜですか?」と聞かれることがある。私もまだ明確な答えを持っていないが、 彼らの支持する自民党改憲案に「条件付きでなら国費を宗教法人に支出できる」 と記されている事実と無関係ではないかもしれない。 》 山崎 雅弘
 https://twitter.com/mas__yamazaki

 ネットの拾いもの。

《 次回の国政選挙には国連の査察を。 》