海渡英祐『極東特派員』徳間文庫1981年初版を読んだ。元本は1961年刊。日本生れだが アメリカ人の養子となって米国籍を取得した28歳のケンジ・ブランデン=僕は、韓国語中国語も できるので、通信社UPSに入社、東京の極東総局勤務となり、激動の韓国・京城(ソウル)へ 赴いた。時は1960年4月。民衆の暴動を受けて李承晩は辞意を表明。帰国した日本では安保騒動。 その最中、東京で台湾人の不審死が起こる。台湾〜中国の謀略戦に関わってらしい。〈僕〉は台湾へ。 そこで遭遇する死闘。ただ一人死線を越えて生還する〈僕〉……。文庫の「あとがき」から。
《 『極東特派員』は、私が二十六歳のときに書いた処女作である。 》
《 私たちの世代は、多かれ少なかれ、安保騒動の嵐の洗礼を受けているわけだが、まだその記憶も 生々しい時点で、こんな作品を書いたのも、やはり若さゆえのことだったと言えるかもしれない。 》
《 いま思えば、『極東特派員』は良くも悪くも、「若さ」の産物である。 》
僕という一人称で語られる内面も快活明朗な熱血漢。『ゴメスの名はゴメス』の冷静、『密航定期便』 の冷徹とはえらい違いだ。
《 新人としては破格の二万部も刷ってくれた。 》
確かに破格だ。
昼前、長靴よりも深い川の石垣に茂るヒメツルソバの除去。まず源兵衛川下流。サンダルに履き替え、 足元を注意して川へ。土のう袋軽く一袋。ここは完了。その勢いで中流部、時の鐘橋下の石垣へ。 急流で深い。足場を慎重に選んでゆく。背伸びしてぐいっと抜く……携帯電話が鳴る。う、この時に〜。 電話を落としたら万事休す。ポケットから慎重に取り出す。のんびりした声。はあ〜。土のう袋 一袋強。手の届かない上の方は水が減ったら脚立を使って取る。これでほとんど駆除。汗かいた。 半分冷や汗。陽射しが眩しいわ。
午後、友だちに頼まれて沼津市の家族を源兵衛川へ案内。上流部で近くの枝に留まっている カワセミを発見。こちらを向いていたが、その後より近く、五メートルほどの枝に移り、 美しい背中を見せる。しばらくそうしていて上流へ飛び立った。みなさん大満足。午後四時解散。 楽しかった、三島に住みたくなりました、と感想。ほっ。
ネットの拾いもの。
《 この古本、高めだが、俺が買わずに誰が買う!(だから残っていたのか…) 》
《 高速増殖されたのは天下りだけ。 》
《 公職増殖炉 》
《 どうしても好色増殖炉って発音してしまう。 》