「正月ボケ」

 昨日は友だちや知人から今年はなにするの? と訊かれた。昨年美術関係が一区切りついたので、今年は街かな、 とぼんやり思っていたら、写真展示が差し迫っている、とどやされた。そうだった。いやあ正月ボケ。あるいは 前期高齢者ボケかな。ボケたらあかん。「ボケてやる」は、夫婦喧嘩の殺し文句のようだが、独身で単発機で 低空飛行をしてきたし(隣の席は空いていた)、バブルの頃も高度な曲芸飛行なんぞをしなかったから今がある。 これからは燃料切れで不時着しないように気をつけて。隣の席はまだ空いている。

《  そこにひとつの席がある
   僕の左側に
   「お坐り」
   いつでもさう言へるやうに
   僕の左側に
   いつも空いたままで
   ひとつの席がある  》 黒田三郎「そこにひとつの席が」より

《  晩餐や不在を飾る咳ひとつ  》 加藤郁乎

 松浦寿輝『明治の表象空間』新潮社を少し読む。

《 透谷の「内部」は、「然れども」の断裂が幾重にも走っている錯綜した空間である。それはナルシシスティックな 自己愛のうちに自閉した静的なトポスではなく、然れども……然れどもの切断と跳躍の運動の緊張した自己愛のによってのみ 辛うじて存立しうる危機的な時空とでもいったものだ。「内部」という名の設定の領域が先験的に存在しているわけではない。 「内部」にいる──と自分を想定する──者が、その「内部」それ自体をめぐって、自己言及的な、しかしいたるところ 否定と前言撤回をちりばめた言説を始動するとき、そこかしこで破れ目を見せつつ持続するその言葉の運動を通じて 辛うじてその輪郭が触知可能となるものが、透谷的「内部」なのだ。 》 470頁「内部──北村透谷」

 二十代の私のジャズ論に再会した気分。「言葉の運動」を「演奏の運動」に替えるだけ。ジョン・コルトレーン・カルテット、 山下洋輔トリオらのジャズ演奏を体感するたびに、否定の連続こそがジャズの本質と考えていた。それはロックにも歌謡曲にも 感じられない、ひりひりとささくれだった生の生命の感触。
 1967年に病没したコルトレーンの後、1960年代末に登場した山下洋輔トリオとアメリカのアート・アンサンブル・オブ・ シカゴ。この二組の1970年代前半の活躍は、私には今もってそれを超える演奏家はいないと勝手に決めている。ライヴが最高。 ライヴでなければ、その真価はわからない。第一次山下洋輔トリオは、新宿ピットインや国立音楽大学で接した。アート・ アンサンブル・オブ・シカゴは、来日公演はやや肩すかしだったが、レコードのライヴ盤は絶品だった。学生運動が下火になり、 空回りする熱情と虚脱感が入り混じった空気を、この二つの演奏が切り裂いてくれた、と今になってわかる。それは、 時代の底を漂流する小舟を見知らぬ停泊地へと曳航してくれた。
 https://www.youtube.com/watch?v=UJhywjV25KM
 https://www.youtube.com/watch?v=Q4mTdOn5DzQ

《 「生命」の観念をめぐって紡ぎ出される言葉の運動が、「然れども」の連鎖によって透谷のまとっていたぎくしゃくした 爬行性や鋭角的な不連続感を失い、なだらかで温良な「自然」の流れへと円満に落ち着いてゆくとき、それは単になにもかもを 一緒くたに肯定する脳天気な生命鑽仰へと通俗化してしまうほかなかった(「わが行く道に茨多し/されど生命の道は一つ/ この外に道なし/この道を行く」武者小路実篤)。 》 471-472頁「内部──北村透谷」

 ネットの見聞。

《 ほんとにあんのこんな姓 》 アルファルファモザイク
 http://alfalfalfa.com/articles/140395.html

《 在特会より危険!? 安倍内閣を支配する極右団体・神社本庁の本質 》 LITERA
 http://lite-ra.com/2014/10/post-558.html

 ネットの拾いもの。

《 涜神鬼族 》