「なぜ日本の定型詩は短いのか」

 今朝はこの冬一番の冷え込み。早朝顔が寒くて目が覚めた。だからといって起きるわけじゃない。 定刻までお布団でぐっすり、頭すっきり。

 若い知人女性からずっと前に貸した二冊の本、田中小実昌『コミさん ほのぼの路線バスの旅』 日本交通公社1996年初版と都筑道夫『七十五羽の烏』光文社文庫2003年初版を手渡される。どちらにも 三島市が出てくる。前者は源兵衛川そばの飲み屋街、後者は三島の西のはずれ、清住緑地近くにあった 元遊郭村岡荘を山藤章二が描いた絵。後者のミステリの舞台、古い民家のモデル。

《 外観の一部は三島で見た大正初期の女郎屋を利用した。 》 都筑道夫

 去年12月13日の日録を参照。
 http://d.hatena.ne.jp/k-bijutukan/20151213#p1

 寒いけど静かなのでブックオフ長泉店へ自転車で行く。乾くるみ『スリープ』ハルキ文庫2015年9刷、 皆川博子『薔薇忌』実業之日本社文庫2014年初版、望月諒子『大絵画展』光文社文庫2015年6刷、計一割引 291円。

 大岡信『一九○○年前夜後朝譚』岩波書店、「なぜ日本の定型詩は短いのか(一)(ニ)」の二章は、 再読して最も興奮したのだが、初読時には一枚の付箋も貼ってない。だから再読は面白い。

《 こうして、日本の詩歌人たちは、詩型の短さ、そして、妙な言い方ですが、中身の軽さに、 むしろ積極的な意味を見出す方向へ、一千年以上の歳月のあいだ、一貫して動いてきました。
  いわゆる中身が詰まっている短歌や俳句は、それだけでは大して価値がないのだという、 見方によってはラディカルな観念が無数の詩歌作者に共有されてきたことは、今日十分検討に値する ように思われます。 》 203頁「 VIII なぜ日本の定型詩は短いのか(一)」

《 少なくとも私は彼(引用者注:柿本人麻呂)が詩の枠組として特定の時間・空間を設定したあと、 五七五七七の進行とともにこの枠組を、現代美学の言い方でいうなら、デペーズマン(場と次元の 急転換)の手法で一新させてしまう鮮やかさに、驚きを押さえることができません。 》 209頁 「 VIII なぜ日本の定型詩は短いのか(一)」

《 すなわち彼(引用者注:柿本人麻呂)は、詩型が長大であればその分だけ多くのことが言えるし、 詩としても強力であるはずだ、という常識的な見方とは逆に、むしろ五七五七七、三十一音にすぎない 短歌形式の方が、日常現実に密着した長歌形式よりもかえって自由に、想像的時空へ人を飛翔させ、 非日常の要素を存分に抱きこむこともできるものであるということを、短歌形式の草創期に早くも 立証してしまったのでした。 》 212頁「 VIII なぜ日本の定型詩は短いのか(一)」

《 日本古典詩歌史には、「リアリズム」の観念はまったく馴染まないものでした。他方、観念的 論述的表現も排されました。目標はむしろ、特定の観念や事象を通してかいまみられる「今ここに 無いもの」の影を、「今ここに有るもの」を通じて捉えることにあったと言っていいでしょう。 明示されるごく僅かな要素は、暗示される大量の世界の尖端でなければならないのです。 》 213頁 「 VIII なぜ日本の定型詩は短いのか(一)」

《 ですから、日本詩歌における抒情というものの実体を、文字に惑わされて「情緒」や「感情」の 側面において考えるのは、まさに考えものです。 》 214頁「 VIII なぜ日本の定型詩は短いのか(一)」

 以上長々と引用したが、これらは言葉をちょっと入れ替えれば、味戸ケイコさんの絵への絵画論として 通じる。椹木野衣・編『日本美術全集 第19巻 戦後〜1995 拡張する戦後美術』小学館2015年初版の、氏の 味戸ケイコさんの絵の解説の一部を再び引用する。

《 何もここまで、というほど緻密に手を入れられた画面は、いくら見続けても新たな発見が尽きないほどだ。 そしてこの漆黒の闇。その底はいったいどこへ続いているのだろう。 》

 たった二十センチ足らずの鉛筆+彩色画。文学でいえば俳句か短歌だ。この一巻でも、谷岡ヤスジのマンガの 一コマの線画に次ぐ小ささ。

 例えばこんな文に変換。

《 絵の枠組として特定の時間・空間を設定したあと、この枠組を、現代美学の言い方でいうなら、デペーズマン (場と次元の急転換)の手法で一新させてしまう鮮やかさに、驚きを押さえることができません。 》

《 ですから、味戸絵画における抒情というものの実体を、掲載誌に惑わされて「情緒」や「感情」の 側面において考えるのは、まさに考えものです。 》

 そしてそのまんま。

《 目標はむしろ、特定の観念や事象を通してかいまみられる「今ここに無いもの」の影を、「今ここに有るもの」 を通じて捉えることにあったと言っていいでしょう。 》

 はたと気づいた。私は、まさに「今ここに無いもの」の影を描こうとしている作品に惹かれる、と。そして作家の 視点は自身の後方遙か彼方にある。昨日ふれたジョルジュ・ド・ラ・トゥール(1593-1652)の視点は、彼方の闇の 一点に固定されている。味戸ケイコさんの視点は固定されず、浮遊している。多分それは西洋と日本の違いでもある、 と思う。

 見えないものを描く、のではなく、ほんのかすかに感じられるなにかを描く。そのなにかを感受しない人は、 気づかぬままに通過する。そして、こんなことを書いていると中森明菜歌う「セカンド・ラブ」の一節が浮かぶ。

《 ♪ 抱きあげて つれてって 時間ごと どこかへ運んでほしい ♪ 》

 優れた作品は、鑑賞者を別世界へしばし拐ってゆく。

 ネットの見聞。

《 記録的寒波 香港最高峰の霜見物80人超が低体温症で救助 》 毎日新聞
 http://mainichi.jp/articles/20160125/k00/00m/030/092000c

《 WATCH: Pacifica Coastal Erosion Caught on Drone Video 》
 https://www.youtube.com/watch?v=CzrymETf9hY&feature=youtu.be

 文字通り崖っぷちの情景。

 ネットの拾いもの。

《 おれの部屋、暖房入れてんのに寒いんですけど。 》

《 世界おわるんじゃねえか? 》

《 木魚作り教室始めました。
  持ち物、角材、ノミ、トンカチ。
  ※誰も作った事ないので全部自力でやってもらいます。 》 坊主バー