『人間科学の哲学』その二

 昨日ふれた仁木悦子『林の中の家』は、角川文庫ではなく講談社文庫でした。

 山口裕之『人間科学の哲学』勁草書房2005年初版、「第1章 『人間』をめぐる哲学と科学の歴史」から。

《 個人的なことを述べると、私は高校生のころに『ソデュールの思想』を読んで以来十五年間、この 「記号の恣意性」について考えてきた。この本では人間的な自由や創造性について語りたいのだが、 それらについて考察するときの鍵となるのはこの「恣意性」であると考えている。観念が恣意的であると いうことは、新たな観念のそ創造の余地が開けているということに他ならないからである。 》 32頁

 「第2章 チョムスキーと言葉の普遍主義」から。

《 そして、言語の獲得とは、秩序形成という、人間にとって極めて一般的な現象の一つの事例であると私は思う。  》 56頁

《 我々が生み出した文が文法にかなった構造を持っているからといって、それを生み出す我々の意識が文法 そのものを知っているということにはならない。 》 63頁

《 つまり、あえて挑戦的に言うなら、脳は情報処理など行っていない。実のところ、「脳が情報を処理している」 という見方は、脳を観察してその電気を解読しようとする人間がいてはじめて成り立つのである。(中略)これは、 脳自身は行っていないことをわざわざ探求しようとしているに他ならない。 》 71頁

 脳に関する本を読んで、何かしら納得しかねる読後感がぬぐえなかった。今は再読対照する気分ではないが、 だよなあというスッキリ気分。

《 つまり、ソシュールの問題は、「私」と他者(外国人であれ同国人であれ)の間での意味の共有である。 つまり、ソシュールの理論の弱点は、意味の共有の理論が含まれていないという点にある。 》 85頁

《 しかし、厳密に言うと、我々は世界そのものを直接認識することはできないのであり、我々が知っているのは 我々の主観に立ち現われた知覚的世界のみである。意味は、知覚的世界に対して設定されるのである。 》 91頁

《 言語や意味の普遍主義を唱える者は、意味の設定には動機が必要であることを見落としている。 》 98頁

《 意味とは一般性なのである。我々が自由に行動できるということに伴って、意味の設定もまた自由になされうる。 必然性などというものは、動機の設定の自由が思考の枠組みを与えたあとで初めて働くことができるものなのである。  》 116頁

 木田元『偶然性と運命』岩波新書2001年初版を再読したくなる。

 ネットの見聞。

《 2)ポジフィルムの色彩劣化は、可能なかぎり原画にあたって、その時代の絵の具を確認し、 描かれた当時を彷彿させるよう修復してあること。とりわけデビュー当時の作品群については、澁澤龍彦邸に 奇蹟的に保管状態の良い作が見つかり、本来の色を特定できたこと。 》 津原泰水
 https://twitter.com/tsuharayasumi/status/700346710011224064

 金子國義『イルミナシオン』のこと。絵画は半世紀も経てば劣化する。保管の難しさを日々実感。

《 言葉の誤用は文化のうちだと思っているので、普段それほど気にならないのだけど、「王道」だけは 小説作品に対して使われることもあるから、いまだに気になる。「王道=楽な道、近道」の意味なので、 「ミステリーの王道を行く作品」などと書いてあると、誤用なのか皮肉なのかわからない。 》 道尾秀介
 https://twitter.com/michioshusuke/status/700463288522375170

《 日本政府の原発事故対策は、まさにプロクルステスのベッド。狭いベッドに旅人をくくりつけ、 はみ出す手足をちょん切る残虐な趣味をもったプロクルステスというギリシャ神話上の追いはぎ。日本政府も、 予算の制約という狭い枠に被災者を縛り付け、はみ出す部分は冷酷にも切り捨てている。 》 山口二郎
 https://twitter.com/260yamaguchi/status/700849173403295744

 ネットの拾いもの。

《 国のためにって「現政権のために」ってことだもんなあ。1%だって貢献したくない。 》

《 パソ消して 消える美少女 映るデブ ――NHKのオタク川柳、容赦ないな。 》

《 ローマ鳳凰 》