「アート嫌い」

 一昨日昨日と「現代アート」という言葉をめぐって書いたけど、つまるところ私は現代アートなる作品が嫌い。 魅力を感じないならばいいが、違和感を禁じ得ない。感情は常に正しい、とは故平岡正明の発言だったと思うが、 半世紀ほど記憶に刻まれている。「芸術」も私にはなんかお高くて肌に合わない。「美術」が最もしっくりする。 お芸術は耳にするが、お美術は聞いたことがない。昨日引用した大岡信の一文が、私にはぴったりする。

《 そこに「能産的自然」のダイナミズムが生き生きととらえられているかどうかが、ぼくにとっては 大切である。  》

 上記引用のちょっと前の文章。

《 ただ、たとえば自然という概念を、「能産的自然」と「所産的自然」との複合としてとらえ、創造力とその 所産とを、この素朴で根源的な概念のうちに包摂することを知っていた古人の知恵を、あらためて新鮮なものに思う。  》 『肉眼の思想』中央公論社1969年、「技術時代の美術」44頁

《 「能産的自然」 生み出された結果としてある自然界 に対し,これを生み出す力としての自然をいう。 》
《 「所産的自然」 具体的な自然的存在物をいう。能産的自然に対する。 》

 なんか小難しい隘路に迷い込みそうだな。まあ、私にとって魅力ある作品こそが大切。それがたまたま美術作品、 芸術作品と呼ばれることがある。そう呼称される作品は、私の考えでは後世においても特別な魅力を保持している。 すなわち賞味期限が長い。アート作品と呼ばれるモノは華やかな話題性だけで、賞味期限は短い気がする。結局、 歴史の判断を待つしかない。その時には生きてはいないが。

 これを書きながら思い浮かべた作品は、白砂勝敏の木彫椅子だ。収蔵庫にあるその椅子に座って表面を掌で なぞっていると、緊張した心がしだいにほぐれ、心身が安らかに静まる。代わるように感覚器官がすっと覚醒し、 鋭敏になる。内側から生気が満ちてくる。
 http://shirasuna-k.com/gallery/woodcarving/?show=gallery

 優れた作品に接すると、必ず感性が敏感に覚醒する。北一明の息を呑む茶碗もそうだが、見るだけではなく、 触ってみることで鑑賞は一層深まる。触れて鑑賞する作品は工芸品と呼ばれる。そんな分類も無効になるだろう。 それにしても触れられる彫刻はまことに少ない。

 昼過ぎ、若い知人女性が北一明の茶碗を見に来る。数点を一碗ずつ見せてゆく。最後に供した小ぶりの耀変茶碗に、 彼女は感嘆。うん、よくワカルね。

 午後、友だちと源兵衛川をお散歩。気持ち良い風。最上流部のセキショウの草叢に鴨のヒナが隠れている。 触りたいがやめておく。

 静岡県の人口減少は、浜松近辺にあった工場が九州へ移転したのが大きいと聞いていたが、移転の理由が東海地震津波を恐れて、移転先が熊本県だった。

 ネットの見聞。

《 べつに特に邪悪な人間でなくても、経済合理性(但し短期的な)を配慮すれば、グローバル資本主義世界に 最適化するためには、地方の切り捨て、弱者の切り捨て、労働者の窮乏化、兵器産業への資源集中、立憲政治の廃止 というのが「満点答案」であるのは自明です。 》 内田樹
 https://twitter.com/levinassien/status/723135643765739520

《 安倍政権はまさにその政策を粛々と実行しているわけで、「経済成長しないとすべては終わる」と思い込んでいる人たち (日本のおじさんの80%くらい)は「確かにこの道しかないわな」とぼんやりこれに同意しているのです。 ほとんどカルトです。 》 内田樹
 https://twitter.com/levinassien/status/723137062153515008

《 現在のような政府もどきが誕生するとは、日本国憲法の「想定外」でしょうね。 》 春橋哲史
 https://twitter.com/haruhasiSF/status/723286226900393984

 ネットの拾いもの。

《 お母さんから鬼みたいにLINEが来たから何かと思ったら、最近勝手に巣に戻って自動充電をするタイプのルンバを 買ったら愛犬がルンバを格上と認識したらしくルンバにほねっこや犬クッキーを渡しに行くようになったから 凄く悩んでるらしい。めちゃくちゃ平和な悩みだな。 》

《 「カント主義車」と誤変換。すごい車だなあ! 》

《 う××、ち××、ま××は「んこ」界の三大スター。 》