「音楽・触覚」

 昨晩、大岡信ことば館で大岡信について語る集まりに初参加。まとめ役の岸井大輔氏や参加者が、若い人の 軽薄な思考を嘆いていたが、今が底でこれから反転していくだろうと楽観的な見方をしたのは、私一人だった。 どうして分かれたのか。岸井大輔氏は全国を飛び回って老若男女に会っている。元気がいいのは60代だと言う。 団塊の世代か。時代の精神は隔世遺伝すると感じている私は、団塊の世代の孫世代に期待している。そのために 源兵衛川を始めとして、泉、川を巡る水環境を豊かにすることで、子どもたちの感受性を豊かに育むことによって、 結果として地域が良くなる、ということを考えている。大岡信のような傑出したした才能が出現すれば、地域は 過疎化、劣化を免れるだろう、とも思う。教育だけでなく、創出した水の風景と戯れることで子どもが、人が、 豊かに育つのを待つ。
 http://www.kishiidaisuke.com/

 美学、文学に対してなぜ音学ではなく音楽なのだろう、と昔から不思議だった。疑問のまま放置していたが。 ネット検索で音楽を学問的に研究する学問「音楽学」があることを知る。発生、出自から調べ上げれば、興味深い 発見があるやもしれぬが、当方そんな気は全然ない。用語は時代とともに変化してゆくことを思うのみ。前世紀には 小説には純文学と大衆文学(小説)そしてその間の中間小説に三分類された。今世紀では中間小説は死語となり、 大衆文学はエンターテインメントと呼ばれ勢いがある。純文学はちょろちょろと命脈を保っているが、この先 どうなることやら。歌謡曲がJポップに替わったように、世の中の用語も意味もいつしか移り変わってゆく。 美学が美楽になり、音楽が音学になり、文学が文楽になり……なこともないことはないだろう。
 なんてことを昨夜ビールを飲みながらのんびり夢想していたら、今朝の毎日新聞「今週の本棚」に徳丸吉彦 『ミュージックスとの付き合い方──民族音楽学の拡がり』左右社への村上陽一郎の評。

《 日本では、西欧のクラシック音楽を、その理念型とし、そこからの距離の遠近で、音楽の下位概念を考えていく、 という牢固とした習慣が成り立っている。 》

《 著者が本気で挑戦しているのは、まさしくそうした習慣の打破である。 》

《 バッハやベートーベンが音楽なら、それと同じ平面の上に、義太夫も、ビルマの民族的な歌も、何もかも、 それぞれ、「一つの音楽」として、対等に並置できる。だから、「音楽」は必然的に「複数」扱いになる。 》

《 著者の立場からすれば、もし民族音楽学があり得るとすれば、ベートーベンの音楽も「民族音楽」でなければ ならないことになる。 》

 http://sayusha.com/catalog/books/oujseries/p=isbn9784865281439c0373

 当然だろう。クラシック最高!の序列は葬り去られよ。

 ブックオフ長泉店で二冊。近藤史恵『モップの精と二匹のアルマジロ』ジョイノベルス2011年初版、森見登美彦 『「四畳半王国見聞録』新潮文庫2013年初版、計216円。前者四冊目をやっと入手。後者は付け足し。

 ネットの見聞。

《 視覚ではなく触覚で空間認知をする。立てる場所と立てない場所、通れる動線と通れない動線を判定するのは 視覚ではなくて触覚です。「私の皮膚は頭がいい」です。 》 内田樹
 https://twitter.com/levinassien/status/723811376423030784

 一昨日《 触ってみることで鑑賞は一層深まる。 》と記したが、行き過ぎた視覚万能感がここにきて限界を 露呈している気がする。触覚認識の強化は喫緊の課題だと思う。イヤーホンで音楽を聴きたくない。聴覚だけでは 音楽の構造、奥行を認識できないと思う。スピーカーで音の中に身を浸し、皮膚感覚=触覚で音像を認識する。

 ネットの拾いもの。

《 草稿の段階で
  首相これはちょっと、と助言するやつもいないのか? 》

《 世界で最も貧しい大統領はムヒカ
  さて世界で最もオツムの貧しい総理は誰でしょうww 》

《 人類アベノミクス計画
  世界「おことわり!」 》

《 A級戦犯なんかを拝むとこうなる 》

《 安倍は世界のATM、お前らは安倍のATM 》

《 そういえば鳩山政権の時は報道の自由度ランキング11位まで高めていたな。 》